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【山蘆】俳人飯田蛇笏、龍太の居宅と俳諧堂

はじめに

 笛吹市境川町小黒坂にある山蘆(さんろ)は著名な俳人飯田蛇笏だこつ龍太りゅうた親子が住んだ家です。現在は龍太の長男で飯田家の十一代当主の住居となっていますが、書斎など生活の跡をそのままに、「俳句の聖地」として大切に守られています。
 山蘆では、年のうち数回一般公開日を設けています。郷土で著名な蛇笏、龍太の文化交流の場であった山蘆と近年移築復元された俳諧堂を見るために足を運びました。


飯田蛇笏

 飯田蛇笏だこつ(1885年~1962年、明治18年~昭和37年)は、近代日本を代表する俳人です。高浜虚子を師事して『ホトトギス』などで活躍しました。俳誌『雲母』の主宰でもあります。

飯田蛇笏
出展 : 山廬文化振興会HP

「芋の露 連山影を 正しうす」は、『ホトトギス』に掲載された蛇笏29歳の時の代表作とも言われる句です。この句碑が、山梨県立美術館、文学館のある、芸術の森公園(甲府市内)にあります。

飯田蛇笏「芋の露 連山影を 正しうす」 2022年10月

 蛇笏は、東八代郡五成村(現笛吹市境川町)の名主である飯田家に生まれました。1899年(明治32年)山梨県尋常中学校(後に甲府中学、現甲府第一高校)に入学します。一学年上には中村星湖(作家)、石橋湛山(55代総理大臣)などがいました。東京の京北中学へ転入し、1905年(明治38年)早稲田大学へ進学しますが、1909年(明治42年)には家から帰郷の命により学業を断念し帰郷します。
 早稲田大学時代に高浜虚子主宰の「ホトトギス」に俳句が掲載されています。
 蛇笏は自宅を山蘆と称し、地主をしながら、養蚕も行い一生この山廬で暮らし、俳句文化に貢献しました。
 若山牧水らと交流があり、牧水が泊ったのが後述する俳諧堂です。
 俳句誌「キラヽ」の中心となり、のちに「雲母」に改題し主宰となります。
 本名は武治ですが、雅号「蛇笏」が定着してくるのは、明治40年頃からでその前には、中学校時代の「校友会雑誌」には「蛇骨」「蛇の骨」と署名されています。早稲田大学時代には「玄骨」「蛇骨」「白蛇幻骨」「白蛇玄骨」などのペンネームを用いています。ただし「蛇笏」について由来は良くわかっていないといいます。

飯田龍太

 飯田龍太(1920年~2007年、大正9年~平成19年)は、蛇笏の四男ですが、若くして3人の兄を亡くしており、生家を継ぐとともに、蛇笏没後は後継者として俳誌「雲母」の発行を継承しました。

飯田龍太
出展 : 山廬文化振興会HP

 芸術の森公園に飯田龍太の句碑もあります。「水澄みて 四方に関ある 甲斐の國」は、周囲を山々に囲まれた甲斐の風土を川が澄みきって感じられる秋に思いを重ねたものです。飯田龍太は戦後俳壇に伝統派の旗手であったといいます。
 1992年(平成4年)、「雲母」を900号にて終刊とすると社会的に話題となりました。以後、15年間は俳句を発表することなくで生涯を終えました。

飯田龍太「水澄みて 四方に関ある 甲斐の國」 2022年10月

 蛇笏、龍太に関する資料の多くは山梨県に寄託されており、山梨県立文学館の飯田蛇笏・龍太記念室で見ることができます。

山廬

 前述のとおり「山廬」は蛇笏、龍太の居宅及び敷地を総称した名称です。蛇笏の別号でもあり「山の粗末な建物」という意味で名付けた造語です。しかし謙遜して付けたもので、実際には飯田家は名字帯刀を許された名主で大地主の家です。
 飯田家の周囲は現在でも道幅が狭く古い家屋が並びますがただひと際大きな家と山が目に入ります。それが山蘆です。
 この山廬は、現在も飯田家が守っています。近年は「山廬」の維持管理と俳句文学の拠点づくりの目的として当主を理事長とする一般社団法人山蘆文化振興会を設立して運営にあたっています。

山廬に向かう、近年復元の俳諧堂とその向こうに母屋

一般公開

 笛吹市境川町は俳句の里として知られていますが、山梨リニア実験線の終端部の町でもあります。山蘆へ向かう途中にリニアの高架橋が走っており、作業車両を見かけることもあります。

リニア実験線の高架橋

 さて、一般公開とはいうものの、敷地と俳諧堂、母屋の土間を公開するのであり、母屋の内部の書斎など蛇笏、龍太の暮らした跡は見せていただけません。撮影は庭と建物の外観は可能ですが、内部も一切撮影を断られます。
 つまり、土間、あるいは庭から書斎を覗いて、あとは後山(裏山)へ行って、竹林を散策するという公開内容です。見学者は一般1000円(賛助会員500円)の維持協力金を払います。3300坪の敷地の維持管理を飯田家が負担しているため、協力金を高いとみるか安いとみるかは人それぞれの感覚です。

俳諧堂

 来訪者用の駐車場から徒歩で向かうとまず近年復元した飯田家の蔵「俳諧堂」の姿があります。この俳諧堂の入口で受付を済ませます。

俳諧堂

 俳諧堂はもとは飯田家の母屋の前に有った穀物蔵で、戦後農地解放などの体制の変化中で、町内の別の家に移築されていました。養蚕や物置に使っていたようですが、いつしか放置され荒れるがままになっていました。移築先でこの蔵を見つけた現当主が飯田家に所有を戻して移築することになり、2019年(令和元年)に完成しました。
 この蔵は一階が小作らから集めた米を収蔵していましたが、現在は展示室としてされており、蛇笏、龍太に関する書籍や飯田家の品が展示されています。
 二階は蛇笏の書斎としていて「俳諧堂」と称し、若山牧水など蛇笏の交友関係者が泊っていました。俳誌「雲母」発行場所であったり俳人たちを集めての句会の会場でもありました。現在も二階は句会などの会場になる多目的スペースとしているようです。

見事な漆喰の壁

 この俳諧堂の蔵は、もともと母屋の庭のところにありましたが、今ある庭を壊すのも忍びないため、隣地への復元となりました。

左上の蔵が母屋の前の俳諧堂
原資料は山梨県に寄託
出典 : 伝匠舎石川工務所HP
町内で荒れていた蔵
出典 : 伝匠舎石川工務所HP

 復元といっても耐震も消防法も適応した現代風の建物に仕上がっています。部材の多くは元の蔵からのもので、壁などはすべて作りなおしています。白漆喰の壁は白さも職人の仕事もたいへん見事です。家紋も立体的な漆喰のこて絵の技法によるものです。また、入り口部分のみ屋根瓦が古いものであることに気が付きます。利用できる瓦を利用しているもので、そのほかは新建材の瓦が使われています。
 俳諧堂の復元は笛吹市より4年間に計2000万円の補助金の支出されており、他に山梨県、山梨中銀の地方創成基金などからも補助金をを受け、ほかに一般からも広く浄財を集い復元が実現したものです。

主屋

 立派な石の門柱を入ると樹齢400年と推定される赤松が大きな枝を伸ばしており、その奥に蚕室を構えた民家があります。江戸時代後期と建築といいますから200年から250年ほど昔に建てられたものでしょう。
 石の門柱は昔の小学校の正門にあるような大変大きなものです。庭内側に金属の蝶番の跡がありますが、戦時中に金属供出するまでは立派な門扉があったようです。また石柱も富士川水運にて富士川から笛吹川と運び入れたもので人工と財力がないと出来ないものです。
 古い写真などでは屋根は茅葺きで写っていたりしますが、その後瓦葺きとなり、1998年(平成10年)に現在の合板葺きに変わっています。

表の通りから
樹齢400年の赤松と

 土間のみ建物に入ることが許されてますので、入ると土間の隣は十畳間がありその向こうにも十畳間があり、そこが龍太の写真にある書斎です。囲炉裏もあるのが土間からでも分かります。

土間の入口、内部は撮影不可

 武家のほかに名主や豪農の家にのみ許された式台玄関があります。式台玄関は、年貢に関して代官や役人が出入りするためのもので、家族でも当主しか出入りはできないものです。

真筆が写らないという条件の元特別に撮影

 こちらの式台玄関はかなり低めに作られているという特徴があるのですが、その理由についてはわかりません。

式台玄関は低い

 囲炉裏が特徴的な龍太の書斎は、庭から縁側越しに眺めることができます。ただよく見えませんでしたので、公開されている画像にてご覧ください。

そのまま残されている飯田龍太の書斎
出典 : 日本経済新聞

 当主の奥様に対応していただきましたが、一般公開と言えど、見ず知らずの人を家に上げるわけにはいかない、土間までしか入れない、という厳格な姿勢であるようです。1日1組限定で申し込めば特別に内部見学もできるらしいです。もちろん特別な協賛金が必用です。
 内部は、書院造りの座敷などもあるようですが、非公開でした。「文庫蔵」もありますが外から眺めるのみです。

庭の門をくぐると書斎に面した縁側へ
龍太が書斎から眺めた庭であろうか
母屋の裏手に文庫蔵がある

後山

 竹林の山があります。こちらも公開日以外に立ち入ることはご法度です。中腹に狐亭という蛇笏時代の東屋が復元されておりますが、閉館時間も迫ると屋外にも関わらず見せていだくことは叶いませんでした。

狐亭からの景色
出典 : 伝匠舎石川工務所HP
狐亭の扁額は蛇笏の書体の写し
出典 : 伝匠舎石川工務所HP

あくまで個人宅

 一般社団法人「山蘆文化振興会」のもと管理されていますし、全国に賛助会員をおられますが、実際に訪ねて分かったのは「個人宅」ということを前面に出しておられます。俳句の里ののどかな雰囲気に誘われて散策がてらに気軽に立ち寄れる、そのような場所ではないということです。
 維持協力金を払って、庭を眺めて、後山を散策し手短に帰るというようでないとだめなようです。また公開日でない日に周辺や後山を訪れることも迷惑になりそうです。
 当主も学識者でありますが、応対されている奥様が山蘆の学芸員でありますが笛吹市の教育委員も務められている学識者です。とにかく俳句によく通じた方が訪問されるほうがよいように感じました。

笛吹市による「山蘆」購入

 さて、厳格に守られてきた「山蘆」ではありますが、飯田家が笛吹市に買い取りを打診しており、教育委員会は定例会議(2024年3月)において市が購入検討を了承しています。会議の中で母屋と俳諧堂を買い取り、後山などは含まれないことが確認されています。
 当主の奥様は、笛吹市教育委員会の教育委員として決定する側の立場にありますから買い取りは間違いないでしょう。
 寄贈ではなく買い取りですが、俳諧堂などは、多額の補助金と一般の方からの浄財が含まれています。2000万円もの補助金を支出した笛吹市は、評価額で買い取るのでしょうか。いずれにせよ、飯田家で山蘆を守ることを断念されたと思われます。

おわりに

 山梨郷土史においても蛇笏、龍太親子は山梨を代表する文化人であり、暮らした住居の一般公開とのことで期待したものの、見せていただけるところはほとんどありませんでした。それは山蘆を守る上での姿勢ですから仕方ありません。
 笛吹市への売却計画もある中で、俳句の聖地がどうなるのか。厳格に守られてきた、蛇笏、龍太の屋敷は笛吹市のもとでどうなるのでしょうか。俳句ファンならずとも山梨の郷土を愛する者にとっても気がかりになるところです。

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