【笛吹市春日居郷土館】企画展「津田青楓~二十世紀最後の文人画家」を見に行く
はじめに
笛吹市春日居郷土館・小川正子記念館では、「津田青楓~二十世紀最後の文人画家」(2023.9.9~12.17)を開催していました。
昨年「津田青楓-前進の時代-」(2022.9.14~12.18)として、笛吹市青楓美術館が所蔵する青楓の作品から前半生に関する作品を展示していますが、今回は後半生に関する展示となります。
津田青楓(再掲)
津田青楓(1880年~1978年、明治13年~昭和53年)は、画家、書家、歌人です。また二科会を設立した人物の一人です。
夏目漱石の著作『道草』『明暗』の装幀は青楓の手によるものです。また、漱石の絵の師匠でもあります。
青楓の活動は4つの時代に分けられます。古い年代順に並べると
・図案の時代
・洋画の時代
・日本画の時代
・書の時代
となります。明治から昭和を生きた青楓ですが、時代ごとにまったく異なる分野で作品を残しています。「漱石に愛された画家」「背く画家」など異名も氏の人生を物語っているようです。
「津田青楓~二十世紀最後の文人画家」
本展は青楓美術館の収蔵する作品700点のうち99点を春日居郷土館へ移動し展示紹介しています。日本画の時代と書の時代のほか、著作、良寛への傾倒、青楓美術館設立についても扱います。
波乱の前半生とは変わり、後半生は公けの場での活躍はほとんど無くなります。断筆から40年、隠宅に閑居した青楓の心を捕らえ青楓美術館の開館に至ったのは美術館の設立者である小池唯則との交流だったのではないでしょうか。
「津田青楓-前進の時代-」の模様からご覧ください。
展示の撮影は出来ません。エントランスロビーから外観のみ撮影させていただきました。
良寛の足跡をたどる
53歳で洋画を断筆した青楓は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶良寛に傾倒します。それは、1914年(大正3年)に漱石と足を運んだ上野帝室博物館の良寛展で見た草書屏風への関心が心に残っていたものだったといいます。良寛の詩や歌を作品に取り入れることは晩年まで続いていきます。
良寛を扱った日本画作品が3点あります。
《良寛像》1975年(昭和50年)
《良寛庵》制作年不詳
《葡萄》1928年(昭和3年)
が展示されています。
《良寛像》には、
「世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる 良寛」(世の中の人々と、付き合わないというのではないが、心のままに独りで楽しんでいる事が私にとってはよい事と思われるのだ)
と書が添えられています。まさにそうして生きてきた青楓の境地が現れています。
続いて、良寛を扱った書が3点並びます。
《良寛詩歌集より(赤)》1973年(昭和48年)
《良寛詩歌集より(青)》1973年(昭和48年)
《良寛歌いろいろ》1973年(昭和48年)
ガラスケースの中に青楓の画帳が3点あります。
『良寛遺跡帖』1935年(昭和10年)
『良寛遺跡一』1971年頃(昭和46年頃)
『良寛遺跡二』1971年頃(昭和46年頃)
そのうち『良寛遺跡帖』は、後述の『良寛父子伝』執筆のために訪れた新潟の遺跡を訪ね、記録したスケッチ集です。
続いてケースには青楓の著作があります。
『良寛父子伝』私家版、1967年(昭和42年)
『良寛随筆』南有書院、1935年(昭和10年)
『良寛父子伝』は良寛と父以南の物語です。青楓は1935年(昭和10年)に執筆を思い立ち、良寛ゆかりの地や新潟を訪れています。
『良寛随筆』には、「良寛遺跡行日記」とともに前述の『良寛遺跡帖』からスケッチが20枚掲載されています。
「字の虫」青楓
続いて、青楓の書が並びます。書は良寛に感銘を受けて書の手習いを始めたものです。関東大震災で被災し京都へ移住した頃からで、良寛の自選自筆歌集『布留散東』の複製本入手したことによるといいます。
「書は人間性の表れである。」というのが青楓の信念であったといいます。
年代の分かるものは1970年代後半なので、青楓美術館の小池唯則が青楓から寄贈されたものでしょうか。制昨年不詳の作品が多いです。
画像はごく一部しか用意できませんでした。書のタイトルだけ挙げておきます。
《春》1974年(昭和49年)
《虚》1974年頃(昭和49年頃)
《一期一会》1977年頃(昭和52年頃)
《清風明月》1977年頃(昭和52年頃)
《鶴寿千歳》1977年頃(昭和52年頃)
《草枕より》1977年頃(昭和52年頃)
《和歌「ほととぎす」》制作年不詳
《青柳》制作年不詳
《懐紙紅葉》制作年不詳
《施無畏》1975年(昭和50年)
《江湖雖大不容鯤魚》制作年不詳
《世を捨て身を・・・》制作年不詳
《長生殿》制作年不詳
新しい表現への試み
4点の特徴的な絵画作品が紹介されています。いずれも昭和24年頃の作品で青楓は70歳を超えていました。
《静物》1950年(昭和25年)と《伊万里壺》1949年(昭和24年)などは、一見洋画のように見える日本画です。油彩で描かれていることから洋画のように見えるのです。しかし落款や印があることから日本画です。
《金地リンゴとぶどう》1950年(昭和25年)、ですが金のもみ紙に油彩で描いています。この作品も洋画のように見えます。
《金地菖蒲花》1950年(昭和25年)は、青楓美術館「花のあるくらし」で展示の時の模様ですが、こちらの菖蒲も金のもみ紙に描いており同じ手法です。度々紹介される代表作品です。
青楓の著作物①~ホトトギスから随筆へ
青楓の数々の著作本がテーマごとに3か所に分けて紹介されています。まずここでは青楓の随筆を紹介しています。
高浜清(高浜虚子)『さしゑ(沙志絵)』光華堂、1911年(明治44年)、は雑誌「ホトトギス」に掲載された挿絵10枚と小説「驢馬車とマドモール・シュザン」を収録しています。挿絵はフランス留学時に目にしたエジプト美術の影響がみられるといいます。
『青楓随筆』弘文堂書房、1924年(大正13年)
『画家の生活日記』弘文堂書房、1924年(大正13年)
『書道と画道』小山書店、1933年(昭和8年)
『雑炊 特別限定本』楽浪書院、1934年(昭和9年)
『墨荘雑記』楽浪書院、1934年(昭和9年)
『懶画房草筆』中央公論社、1934年(昭和9年)
『懶六十三記』桜井書店、1943年(昭和18年)
『寅彦と三重吉』は、寺田虎彦について書いた本。
『河上・青楓白描像』クラルテ社、1948年(昭和23年)
『漱石と十弟子』は漱石山房に集う十人を扱ったもので現在も出版されている代表作です。以下の版があります。
『漱石と十弟子』(世界文庫版)、1949年(昭和24年)
『漱石と十弟子』(朋文堂新社版)、1967年(昭和42年)
『漱石と十弟子』(芸艸堂版)、1974年(昭和49年)
『漱石と十弟子(新装版)』(芸艸堂版)、2015年(平成27年)
季節(とき)の流れの中で
奥に進むと壁面に並ぶ多数の絵画があります。青楓の描く日本画です。洋画時代とは全く変わった青楓の日本画は自由であり、歳を重ねていく自身の内面の表現でした。「懶青楓」(懶とはなまけの意味)と名乗り断筆から40年、隠宅に閑居していました。
画像が用意できなかったのですが、それだけ図録等でもあまり見かけない日本画作品を多く出品されています。
《旭日鶴》制昨年不詳
《朝陽図》制昨年不詳
《松島図》制昨年不詳
《皿絵(試作)》制昨年不詳
《春夏秋冬》制昨年不詳
《花(八角硝子器)》制昨年不詳
《すみれ》制昨年不詳
《しゃくなげ》制昨年不詳
《富貴不傲ふうきふごう(牡丹)》制昨年不詳、見事に白い牡丹一輪を描いています。
《壺西洋芍薬》制昨年不詳
《柿》1948年(昭和23年)
《古薩摩》制昨年不詳
《一歳有一春》制昨年不詳
《蘭竹》制昨年不詳
《月の兎》制昨年不詳
《武蔵野図》制昨年不詳
《筍》制昨年不詳
《鮎》制昨年不詳
《玉蜀黍》制昨年不詳
《磐梯朝日国立公園 るり沼》制昨年不詳
《柿》制昨年不詳
《山門風景》制昨年不詳
《花(八角硝子器)》は、青楓美術館の2023年前期展示「花のあるくらし~津田青楓が描く花の世界」のメインビジュアルとなった作品です。
また、《壺西洋芍薬》も「花のあるくらし」で展示されていました。
青楓の著作物②~歌集と詩集
続いての著作の紹介は歌集と詩集です。関係者のみに配られた私家版や限定版ばかりです。
『青楓撰歌集』私家版、1941年(昭和16年)
『津田青楓詩集 非詩百編』私家版、1958年(昭和33年)
『米寿記念歌集悲東々起多奴之 米寿記念歌集』私家版、1967年(昭和42年)
『青楓詩選』私家版、1967年(昭和42年)
『聾亀第二歌集』私家版、1970年(昭和45年)
『近詠百歌抄(青楓自選歌百首)』私家版、1970年(昭和45年)
『津田青楓詩集 非詩百編』は、津田青楓80歳の個展を記念して限定出版されたものです。
二十世紀最後の文人画家
晩年の作品となります。
大型の書で4点に書いた「いろは歌」です。
《いろは歌A》1974年(昭和49年)
《いろは歌B》1974年(昭和49年)
《いろは歌C》1974年(昭和49年)
《いろは歌D》1974年(昭和49年)
下記画像はこの書をかつて青楓美術館で展示したときの模様です。
続いて日本画です。
《青山白雲・・・(籠中紫陽花図)》制昨年不詳
《手毬図》制昨年不詳
《放浪記(森光子)》1974年(昭和49年)
《鬼の三味線》制昨年不詳
《おに》制昨年不詳
《弥陀の掌(弥勒菩薩)》1974年(昭和49年)
《ダルマ図》制昨年不詳
《虎吼龍雲図》1973年(昭和48年)
《富岳第三号図》制昨年不詳
《久我山所見 富士第四号》1975年(昭和50年)
《紅葉と富士》1975年(昭和50年)
《手毬図》1973年(昭和48年)
《放浪記(森光子)》は、放浪記の舞台で林芙美子に扮している森光子です。
《鬼の三味線》はなんともユーモラスです。「鬼もひく糸のいろはやちんとんシャン」
《弥陀の掌(弥勒菩薩)》
《虎吼龍雲図》も、晩年の龍虎図で青楓美術館でおなじみの作品です。
《富岳第三号図》は、見事な葡萄園と富士山です。
《紅葉と富士》は、旅の宿から見た富士と紅葉を描いています。実際に旅をして描いたかは95歳という高齢を考えると過去に見た印象だったのではないしょうか。
青楓の日常と交流
洋画断筆以降の青楓は、公けの舞台からは一歩引いていました。
1947年(昭和22年)、杉並区に土地を購入し家を新築し、ここで創作活動を続け、終の棲家としました。
酒井億尋、林要などの親しい友人と交流しました。
日常の様子が垣間見える作品や日常を移した写真が展示されています。
デッサンが3点あります。いずれも青楓の晩年のものです。
《酒井億尋像》1976年(昭和51年)
《波麻子夫人像》制昨年不詳
《自画像 (箱根フジヤホテルにて)》1973年(昭和48年)
《酒井億尋像》1976年(昭和51年)、酒井億尋とは大正7年からなので生涯60年の付き合いとなる人物。美術雑誌の記者から実業界へ転じた人物です。杉並区に土地を勧めたのも酒井であり、家も近所の間柄でした。
また、青楓美術館開館の初日、酒井億尋の車に青楓と小池唯則が同乗して笛吹市一宮町へ向かっています。
《波麻子夫人像》、波麻子夫人(濱子夫人)は晩年まで一緒に暮らした2人目の妻です。濱子夫人は青楓が亡くなると翌年他界しています。
青楓の著作物③~人生を振り返って
最後の著作は人生に関するテーマです。
『自撰年譜』私家版、1940年(昭和15年)
『盲亀半世紀-津田青楓喜寿祝賀出版』南画廊、1956年(昭和31年)
『老画家の一生 上』中央公論美術出版、1963年(昭和38年)
『老画家の一生 下』中央公論美術出版、1963年(昭和38年)
『春秋九十五年 (限定)』 求龍堂、1974年(昭和49年)
『自撰年譜』は、還暦を超えた61歳の青楓が自身の生い立ちを振り返ったものです。
『盲亀半世紀-津田青楓喜寿祝賀出版』は喜寿の記念出版です。
『老画家の一生 上下』
『春秋九十五年 』
青楓美術館の開館
1974年(昭和49年)10月23日、笛吹市一宮町に青楓美術館が開館しました。
笛吹市一宮町の出身の小池唯則(1903年~1982年、明治36年~昭和57年)が郷里に文化をとの思いで私財を投じて美術館を建設しました。山梨県で現存する最古の美術館となっています。
小池は文化の香りのするものを郷里に作りたいと思っていました。絵画ならば誰でもいつでも見ることが出来るので美術館にしたといいます。
小池は友人の紹介で青楓と出会い、交流を重ね青楓の作品を集めていきました。美術館の作品は信頼できる方法で収集したいと考えていたからです。美術館を作ることを知った青楓からは、売って建設費用の一部にするようにと40点の作品が寄贈されました。しかし、小池は売るなんてもったいない、この作品を展示しようと美術館の名称も「青楓美術館」にする旨を快諾してもらい自身の故郷に青楓の美術館をつくりました。青楓からの寄贈は最終的に70点になったといいます。
デッサン画、吉井忠《老先生の執筆を見守る小池唯則》1972年(昭和49年)があります。青楓と小池唯則の交流の深さの分かる作品です。
ケースの中に青楓から小池唯則宛の書簡が2通あります。
「小池唯則宛書簡1972年9月1日」は、韓国旅行に出かけた、手紙を送っています。内容はかつて朝鮮陶器を見てきたことや、柳宗悦の名前が出てきます。
「小池唯則宛書簡1975年5月18日」は、毛利武彦作《津田青楓先生像》を青楓美術館に寄贈するとの内容です。
《津田青楓先生像》1975(昭和50年)は、毛利武彦の描いた最晩年の青楓像です。賛は青楓によるものです。上記の書簡にて寄贈の旨が書かれた作品です。
大往生と再評価
青楓美術館開館から4年後の1978年(昭和53年)、青楓は老衰のため98歳で天寿を全うしました。
毛利武彦《青楓居士(死面)》1978年(昭和53年)は、亡くなった青楓を描いたデッサンです。夫人からの依頼により毛利武彦が描いたものです。
図案、西洋画、断筆を経て日本画、良寛と書画と時期ごとに作品を変えてきた青楓したが、近年再評価が進み、生誕140年となった2020年より都内で展覧会が続きました。
統合先として適当か
昨年と合わせて津田青楓の生涯を青楓美術館の所蔵品にて振り返る展示が完了したことになります。ただしこれは、以前から議論となっている青楓美術館の廃止統合を見据えて先行実験的に行われたものと考えられます。
青楓美術館は小さいので99点の青楓作品を一度には展示できません。しかしこちらの展示室は広いとはいえ、一部屋だけなので、青楓の作品展をしている期間は考古や歴史資料の展示をしていません。夏には恒例の「わが町のハ月十五日展」もあります。そう考えると、もし青楓美術館の廃止統合しても青楓の作品が展示できるのは、特別展の機会だけになるはずです。
また、筆者が観覧している間に一人も入館者はいませんでした。いつ行ってもほかに入館者はいません。館内の照明も暗くなんとなく入りにくさを感じます。数字の上で年間入館者は青楓美術館よりもずっと多いのですが、笛吹市内の小学校の団体利用を計上しているからにほかなりません。
反対運動も起きている中で無理な統合は行わず、青楓の作品は青楓美術館で通年展示をするのが適当だと思うものです。
おわりに
青楓の後半生の日本画や書、著作など、晩年まで多彩に創作していたことの分かる展示でした。昨年と合わせて津田青楓の生涯を青楓美術館の所蔵品にて振り返る展示が完了したことになります。ただ展示についてはもう少し流れが分かるような工夫があってほしかったです。
参考文献
図録『青楓美術館図録』青楓美術館、1983
練馬区立美術館編『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』芸艸堂、2020