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【昭和町風土伝承館杉浦醫院】地方病の「記憶」を伝え残す資料館(2) 父子二代の闘い

はじめに

 昭和町風土伝承館杉浦醫院は、甲府のベッドタウン昭和町に所在する地方病の歴史を後世に伝え残すための資料館です。2回目は医院の建物、展示について紹介します。
 ここは杉浦健造と三郎の父子二代にわたる医師が、献身的に地方病の治療と予防対策にあたった医院の跡であり、国の登録有形文化財に指定されています。
 杉浦家より昭和町が土地建物を取得し、所蔵品は寄贈を受け2010年(平成22年)に昭和町風土伝承館杉浦醫院として開館しました。
 本稿では、登録文化財である杉浦醫院の歴史や建物、展示を中心に紹介いたします。

タイトルを変更しました。2023.6.7
(旧)【昭和町風土伝承館杉浦醫院】(後編)父子二代、地方病との闘いを伝える資料館

医業の家

 杉浦家は、江戸時代初めの初代杉浦覚道から7代目杉浦嘉七郎までこの地で漢方医として医業を営んできました。また、大地主でもありました。
 健造は西洋医学を学び、8代目として医業に就きました。ちなみに、健造の父である6代目大輔は早逝していて、その弟の嘉七郎(健造の叔父)が7代目を継いでいました。
 9代目三郎は健造の甥で婿養子です。その長男である10代目健一は自衛隊の医官でした。67歳で亡くなっています。現在11代目の修氏が都内で開業医をされています。「すべての患者は自分の家族である」との信条で地域のかかりつけ医として評判のようです。

 診察室の外に建つ石碑は「清韻先生寿碑」といいます。医院棟の落成時に建てられたものです。健造の父杉浦大輔(6代目)は歌人で書家でした。「清韻道人」と号して多くの作品を残した人物でした。

6代目大輔氏を称える「清韻先生寿碑」

杉浦健造

杉浦健造

 杉浦健造(1866年~1933年・慶応2年~昭和8年)は、巨摩郡西条村(現昭和町)の杉浦家6代目大輔の次男として生まれました。
 横浜野毛で伊藤博文の侍従医にて母方の祖父でもある小澤良斎医師のもとで西洋医学を学び、25歳で生家に戻り、8代目として杉浦醫院を開業しました。
 地方病に苦しむ人々を目の当たりにして健造は、膨大な私財を投じ、この病の根絶に尽力したことは前回述べたとおりです。

健造の師、小澤良斎の肖像画

 健造は常々「国家の基礎は国民にあり、人の幸福は健康に在り、保健の源は衛生にあり」という信条を語っていました。国の基礎は国民にあり、その一人一人の幸福は健康が第一であり、その健康を保つ源は衛生にあるという意味です。
 健造は地方病の研究の合間でも校医など社会的貢献を行っていました。
 貧しい子供にはその場で治療を施し、学校へは常備用の医薬品を寄付したりするなど、私費をもって有病地の中心地とされたこの地域の児童の健康増進に寄与しました。
 地域からの信頼も厚く、医業の傍ら、西条村と常永村(ともに昭和町)の組合村長に請われて就任しています。
 しかし、健造は1933年(昭和8年)、往診へ向かう人力車の横転事故が元で志半ばの67歳で生涯を閉じました。
 そうした健造の業績を称え翌年、押原尋常高等小学校(現押原小学校)に銅像が建立されました。昭和18年、戦時の金属供出により銅像は無くなり、戦後台座のみ杉浦家に帰ってきています。

母屋の玄関前にある台座
昭和18年2月28日、金属供出に伴う銅像出陣式の記録

杉浦三郎

杉浦三郎

 健造の情熱は娘婿で9代目として杉浦醫院を継いだ杉浦三郎(1895~1977・明治28年~昭和52年)に受け継がれました。三郎は婿養子ですが健造の兄の三男のため甥です。
 三郎は宮入貝の研究や駆虫薬スチブナールの投与方法の確立により地方病の第一人者となりました。
 1947年(昭和22年)、昭和天皇の山梨訪問における地方病有病地視察に際しては説明役を務め、1949年(昭和24年)には、山梨県医学研究所の初代地方病部長に就任し、戦後の地方病撲滅運動で大きな役割を果たしました。
 医院はスチブナールの注射を打つために通う患者で連日いっぱいだったといいます。家族の前でも決して怒鳴ったことのない穏やかな性格だったそうです。また、夜でも患者さんがやって来ると白衣を羽織って出ていったといいます。

昭和天皇の視察にて説明する三郎

登録文化財

 杉浦醫院には、およそ1000坪の敷地にかつての医院棟のほかに母屋、屋敷蔵、土蔵、納屋、車庫、温室の7つの建物と日本庭園があります。
 昭和町が杉浦醫院の整備を進めて、2012年(平成24年)、医院棟、母屋、屋敷蔵、土蔵、納屋の5つの建物が国の登録文化財に指定されています。昭和町にある国指定の文化財はこの5点のみということで、昭和町にとっても貴重な文化資産といえます。

医院棟

 杉浦醫院に訪れた場合、受付をして医院棟の建物内を中心に見学することになります。
 医院棟は健造先生が、三郎先生のために1929年(昭和4年)に建てたものです。それまで医師は往診するのが中心でした、健造先生は母屋の一室で診察していましたが、三郎先生の代には外来で診ることが一般化すると考えて別棟を建てたのです。

医院棟の正面
土蔵のある建物裏の広場から

 かつて、医院の周辺は農地で建物もなく医院は欅の大木に囲まれていたため「森の病院」(西条の森)と呼ばれていました。身延線の常永駅やボロ電(山梨交通電車線、廃止)の榎駅から降りても、医院の場所が分かったといいます。

昭和45年撮影の航空写真

玄関

 まず、建物から張り出した玄関です。両開きの扉があり、右に縦書きの木製看板とともに、左には英字の看板があります。

戦前の風情を残す医院の玄関
英字表記の看板

 驚くのはその下に魚やら名前やら、土壁に直接彫った落書きがあるのです。中の待合室は患者であふれ、子どもが外で遊びながら石や木片で彫ったようです。三郎先生は怒りもせず「よく描けたなぁ」とほめていたそうです。もっとも、魚の落書きには地方病で川に入ることを禁じられた子どもたちの思いも感じられます。三郎先生はそんなことも感じ取っていたのでしょうか。

子どもたちの力作

待合室

 玄関の両引き戸を開けるとすぐに待合室になっています。
 下足を脱いで上がります。職員の方が出てきて受付をしてくれます。可能な場合は館内を巡りながら解説してもらえます。一巡するだけで60分はかかります。醫院側の都合もあるので予約をしたほうが確実です。自由に見て回るだけならば予約なしで可能です。

見学の受付を兼ねる医院の待合室

 まず驚くのが待合室が畳敷きの和室ということです。ただ、患者の多さからから考えると六畳では大変狭いです。それもそのはず、多い日には一日300人の患者さんが待っていて外まであふれていたといいます。病院の前庭には近所の農家が、米や野菜の店を出して、患者さんが帰りに買い求めていたそうです。
 木製の番号札がありました。いまのような整理番号のシステムがすでに導入されていたのです。

使い込んで消えかかった札も

 「ヒポクラテスの誓い」が額に入れられておりました。

よく見ると、「ヒポクラテス」の誓

調剤室

 待合室に面して、受付を兼ねた調剤室があります。三郎先生の奥さん(健造先生の娘)が薬を担当していたそうです。
 ほぼ昔のまま機材や薬剤が残っています。イギリス製の浄水器やカルテを納めていた棚もそのまま残っています。

イギリス製の浄水器
カルテもそのまま残っていました

 背後には薬品の薬棚があり、ずらりと薬瓶が並んでいます。黒いガラスをはめ込んだ一番上の戸棚は「劇薬」と書かれていて中は見えません。

一番上の黒い引き戸が劇薬

 また、三郎先生が数年前に実際に使用していた駆虫剤のスチブナールのアンプルがあります。このスチブナールは副作用が強いため、生理食塩水で希釈して20回に分けて通院して太い注射針で静脈注射しました。患者さんの体格や年齢などから注射する間隔は異なっていたようです。

治療の切り札スチブナール

診察室

 この部屋で三郎先生は毎日大勢の患者さんを診ていました。
 顕微鏡や昔の医療機器がそのまま残されています。医師の机があり、患者の椅子があり、診察用ベッドがあるというのは現代とさほど変わっていないことに気が付きます。
 椅子の向こう側の黒い筒状のものは、丸胴火鉢といいます。三郎先生が診察の際、手を温めたものです。昔は医院のあちこちに火鉢が置かれてていました。写真は用意できませんでしたが、玄関の下足箱の前には床下収納のような火鉢入れもあります。

三郎先生と寄生虫の写真
顕微鏡や血圧計も昔のまま

手術室

 診察室と続きの部屋が手術室だと聞くと驚きますが、内科医だったため基本的に麻酔を使うような大掛かりな手術はなかったのでしょう。むしろいまのお医者さんにある処置室といった感じです。
 また古い黒電話が置かれていて電話番号が書かれています。昔は貴重だった電話も杉浦醫院ではいち早く引いていました。

手術室の机
ベッドの横は書類がびっしり

レントゲン室

 レントゲン室といえば暗い閉じられた部屋のはずですが、便所にあるような小窓がついています。現像する必要もあるため暗室でないとダメなはずです。ましてや放射線を扱うのですから。
 実はレントゲン室として作ったものの機能していなかったそうです。レントゲン撮影が必要な患者には設備のある病院で撮ってもらってきたようです。
 古いレントゲンの機械は残っていますが、結局、物置として使用されていたようで、いまも物置としての風情があります。

古いレントゲン機械や現像用と思われるトレイ

応接室

 廊下をはさんでひときわ豪華な部屋が応接室です。
 すぐに目を引くのが、菊の紋の家庭用グランドピアノです。脚は鶴の脚の形、ピアノの中身はドイツ製で外は漆塗りの日本製です。鍵盤は象牙が使われています。このピアノは、1933年(昭和8年)、皇太子明仁親王(現上皇)の誕生を祝い山葉ピアノが制作した100台のうちの1台です。

戦火で現存するものも少なく貴重なピアノ

 また、ステレオ装置があります。スピーカーと一体型ですが、どのように使うのか確認できませんでした。

レコードプレーヤーはどこに

 部屋の隅に健造先生の銅像があります。これは母屋前の台座にあったものと同じものを室内用に注文して作られました。彫刻家笹野恵三の作です。戦時中には隠して難を逃れた物とのこと。同じ室内にある白い裸婦像の彫刻も笹野恵三の作品です。

片隅でそっと見守る健造先生
ピアノの向こうに笹野恵三作裸婦像

院長室と展示コーナー

 医院棟と母屋を結ぶ廊下が展示室になっていて健造先生と三郎先生の年譜とともに杉浦醫院にまつわる資料を展示しています。
 元々は押入れだったところを展示コーナーに改装したものです。

押し入れの面影の残る展示スペース

 ひときわ大きい賞状は三郎先生の「保健文化賞」と「勲五等双光旭日章」です。
 「保健文化賞」は、保健衛生の向上に取り組み顕著な業績を残した人に捧げる賞で三郎先生は1951年(昭和26年)に第2回保健文化賞として受賞しています。

保健文化賞

 また、1971年(昭和46年)には「勲五等双光旭日章」が三郎先生に授与されています。

勲五等双光旭日章

 また、平成31年の4年生社会科の教科書で杉浦父子のことが紹介されました。地域の人々を病気(地方病)から守ったと医師いうことで見開き2頁にまとめられています。

掲載された4年社会科教科書

 廊下の突き出た部分に大きな机があります。ここが休憩をとられていた院長室だったといいます。いつから院長室をここにしたのか不明ですが、たいへん見事な応接室に比べるとあまりに質素で対照的です。タバコがお好きだったそうで、いくつも灰皿があります。
 三郎先生は表彰に興味はなく賞状などを自身では掲げなかったそうですが、渡り廊下の院長室の後ろで質素な押し入れの展示場であれば三郎先生も納得してくれるのではないでしょうか。

タイプライターや灰皿のある机、横には三郎先生の写真
外から見た院長室、増築したものと思われます

洗面室

 少し戻りまして、応接室の先に洗面室があります。ここでは宮入貝やホタルの解説をしています。ホタルの餌であるカワニナの水槽があってその前に、カワニナと宮入貝の違いの分かる標本を展示しています。また、宮入貝も飼育していて観察することができます。実際に見た宮入貝は米粒くらいのたいへんに小さな貝です。

宮入貝の飼育ケース(左)とカワニナの水槽(右)
宮入貝とカワニナとの比較展示
飼育されている宮入貝

 この洗面室ですが、戦後すぐに進駐軍の受け入れのために改装したものです。
 米兵がフィリピンなどのアジアの占領地域で地方病にかかり治療や予防法が分からず苦慮していました。進駐軍は三郎先生の評判を聞きつけて、地方病の治療法の指導を依頼してきました。アメリカ人の医師や研究者を受け入れるにあたり洗面室をシャワー対応に改装したり、大きな姿見の鏡を置きました。
 玄関の英字の看板も進駐軍関係で医師や研究者が出入りするためのものです。

洗面室に残る姿見の鏡

406医学総合研究所

 上記のような経緯に寄り、昭和22年、進駐軍の衛生班406医学総合研究所が山梨県庁内に臨時研究所を設け、地方病の把握と撲滅法の研究を始めています。
 杉浦医院には、医師や研究者が入れ替わりで泊まり込み三郎先生から治療法を学んでいきました。406医学総合研究所は甲府に9年間常駐し宮入貝の殺貝剤(PHPナトリウム)を実用化させ終息に一役買いました。
 進駐軍の研究班長だった、D・B・マックマーレン博士(1902年?~1967年)はおよそ4年間滞在し、殺貝剤の研究の功績で山梨県より感謝状を受けています。その後はWHOの依頼でアフリカの住血吸虫症の研究をしています。(山梨日日新聞1967.6.4の訃報より)

診察室に残るマックマーレン博士の写真
406医学総合研究所と醫院の法被

謎の多い寄生虫列車

 診察室に寄生虫列車を扱った記事が紹介してあります。
 寄生虫列車とは406医学総合研究所の研究施設で3両編成の研究用客車を甲府駅に常駐させて、その中で研究をしていたそうです。
 研究車2両(スミ331とホミ821)に寝台車(マイロネ382)を加えた3両編成で食堂車の機能があったとの記録もありますが、寄生虫列車の資料が少なく証言によるところも多く、明確ではありません。なにより列車を横づけし研究するのですから外部に漏れないような機密的な扱いも感じられます。
 それでも、寄生虫列車の研究所で実用化されたものに、先に触れた殺貝剤のPHPナトリウムがあります。ほかにも薬剤を開発したようですが、そちらは環境破壊が大きく実用化されませんでした。

早坂元興氏による寄生虫列車の記事
早坂元興氏による寄生虫列車の記事

学習室

 2階に上がると、畳敷きの8畳の部屋が2間続きであります。ここのテレビモニターで地方病に関する映像番組を見ることが出来ます。長机には新聞の切り抜きがあり、本棚や壁には小中学生の自由研究の秀作があります。
 この2階部分は、地方病の研修に来られた方々の宿泊のために使っていたようです。戦後すぐは進駐軍が研修に来て宿泊していました。そのため一階の洗面室の改装が必要と思ったのです。

長机に新聞記事の切り抜きがズラリ
壁や本棚には子供たち秀逸な自由研究が保管されています。

母屋、屋敷蔵

 健造先生が医師免許を取得し帰郷した1892年(明治25年)に新築されました。寄棟造桟瓦葺きで、玄関は唐破風で石の式台があります。医院棟へは廊下でつながっています。
 昭和町による杉浦醫院の整備、開館後も母屋には三郎先生の長女がお住まいでした。2019年(令和元年)にお亡くなりになられており、今後は改修して母屋も公開される計画です。

唐破風の玄関
庭から見た母屋
瓦は家紋や文字が入り凝ったものです
石臼を使った飛び石

 母屋の北西側に連なる二階建の土蔵の座敷です。

屋敷蔵

 母屋の屋根には避雷針が付いています。かつて「森の病院」といわれたことからも、敷地には木々が多く落雷の危険性があったのでしょう。

屋敷蔵から母屋を見ると避雷針が分かります

納屋・土蔵

 納屋と土蔵は一体感のある横並びになっています。現在は納屋と土蔵を合わせて四方山よもやまギャラリーとして民具などの展示に利用されています。

納屋と土蔵

 納屋はL字形をしています。米蔵風の作りをしています。

納屋

 また、土蔵は瓦葺き二階建です。

幅の広い軒でアーケードのような土蔵

源氏館

 文化財ではありませんがさらに二つ建物があります。一つは源氏館といいます。かつては自家用車の車庫でした。

車庫にもりっぱな瓦が

 三郎先生は往診用にダットサンを持っていたようですが、自身で運転はされず運転手に任せていたようです。しかも昭和町で最初の自家用車だったとのこと。(健造先生の往診時は人力車でした)

母屋の玄関でダットサンと

 数年前まで、NPO法人の源氏ホタルの幼虫の飼育小屋として使用されていました。現在も庭園の池は昭和町源氏ホタル愛護会や生涯学習課などがホタルの幼虫を毎年放流しています。

庭園の池では6月にかけてホタルが舞う

もみじ館

 もう一つの建物はもみじ館といいます。元々は三郎先生の趣味のための温室でした。
 ここには木喰研究の第一人者であった丸山太一氏の書籍と研究資料が遺族より寄贈され「地平文庫」として公開されています。丸山太一氏の本業は医療機器の販売店の経営でした。そうしたことから杉浦醫院とは交流がありました。

木喰研究の貴重な資料がこの中に

 木喰に関しては木喰の里微笑館の記事にて触れましたが、生家のある身延町丸畑では争いごとがたえませんでした。木喰が全国を旅して残した微笑仏の姿とはあまりに対照的です。
 丸山氏の資料が木喰とは関係しない杉浦醫院に寄贈されたことも丸畑の問題と無関係ではないでしょう。

丸山太一氏の蔵書と木喰研究の資料
地平文庫の由来

おわりに

 今回は杉浦醫院の歴史や建物を中心に紹介いたしました。
 館長、職員の方にはたいへん時間をかけて説明していただき、筆者の質問にも丁寧に答えていただきました。見学者ひとりひとりを案内し説明するというのはたいへん手間のかかることでありますが、こうした地道な苦労があって口コミなどで県外からも見学者がやってくるのだと思います。

 2回にわたり、地方病と杉浦醫院を紹介いたしましたが、筆者も本稿を書くにあたり、地方病について学びました。たいへん大きなテーマであり不十分な点もあると思います。必要に応じ訂正、加筆するつもりです。
 甲府盆地における地方病と杉浦父子たちの100年の闘いがあったことをみなさまの「記憶」の一部に残していただければ幸いです。

 続編は杉浦醫院の源氏ホタルについて紹介します。2023.6.7

参考文献
斎藤俊章編『郷土史にかがやく人々第7集』青少年のための山梨県民会議、1974
山梨県衛生公害研究所、梶原徳昭『地方病とのたたかいー地方病流行終息へのあゆみー』山梨地方病撲滅協力会、2003
昭和町風土伝承館杉浦醫院編『昭和町風土伝承館杉浦醫院の楽しみ方ガイドブック』昭和町風土伝承館杉浦醫院、2020
昭和町風土伝承館杉浦醫院編『地方病を語り継ごう 流行終息宣言から25年』昭和町教育委員会、2022

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