【富士川水運歴史館】富士川水運を伝える新オープンの資料館
はじめに
2023年(令和5年)2月、富士川町に新たな文化施設が開館しました。
富士川町歴史文化館「塩の華」です。「富士川水運歴史館」「富士川近代人物館」の2館で構成されています。まず本稿では富士川水運歴史館について紹介します。
元「交流センター塩の華」
塩の花の建物は、水運の河岸にある舟蔵をイメージしたデザインに造られています。塩の花の名称も富士川水運(舟運)によって、盛んに甲州へ運ばれていた塩に由来します。
この建物が文化施設となる前身は鰍沢町の「交流センター塩の華」という道の駅のような物販と飲食施設でした。「交流センター塩の華」は2021年(令和3年)3月をもって営業を終了しました。
この施設のある場所は山梨と静岡を結ぶ主要道路の国道52号沿いです。中部横断自動車道が新東名高速まで延伸したことにより、国道52号の通行量が激減しました。また、合併により富士川町内には規模の大きな「道の駅富士川」があります。こうしたことなどが理由で営業を終了しています。
塩の華の活用策として、「富士川水運歴史館」および「富士川近代人物館」として改装オープンしました。
ところで、増穂町と合併して富士川町の一部となった鰍沢町ですが、新しい役場は増穂町に置かれ、中学校も統合され増穂中が事実上の存続校となり、中部横断自動車道のインターも「道の駅富士川」も増穂町内にあったりと合併後、鰍沢町のほうが水をあけられています。もともと増穂町と鰍沢町の仲はよくなかったと聞いたことがあります。そのあたりの配慮などがあって鰍沢町の歴史でもある水運の資料館になったようにも感じられます。
富士川水運歴史館
では、富士川水運歴史館とともに、富士川水運についてみてまいりたいと思います。見学は無料です。入館するとボランティアガイドの方が対応してくれます。
「17の謎」に迫る
展示は富士川水運(富士川舟運)の始まりから終りまでを「17の謎」としてトピックを提示して解説していくことで学ぶという構成になっています。
また、渡し舟に使われた舟の実物の中に着席して前方スクリーンの映像を見るという趣向もこらしています。
また、舟運のために開削工事に尽力した角倉了似のキャラクターパネルがあります。
少し残念なのは、富士川水運に関する資料がたいへん充実してるのですが、情報量が多すぎるせいか読みにくい印象です。
鰍沢
まず、この資料館の所在地である鰍沢ですが、葛飾北斎の富岳三十六景「甲州石班澤」に描かれていたり、古典落語の演目「鰍沢」では船着き場が舞台になっています。鰍沢は富士川水運の河岸とともに大いに栄えていました。
鉄道開通前の主要物流ルート
現在、山梨から東京へ向かうには鉄道も道路も、笹子峠と小仏峠をトンネルで貫くルートをとります。鉄道の無かった時代、江戸への年貢米の輸送ルートとして、甲州からは鰍沢を中心とする河岸から荷物を舟に積み、富士川を下り、およそ71キロ離れた岩淵の河岸(静岡県富士市)まで運ばれました。その先は陸路を蒲原浜へ、さらに回し舟で清水湊へ、さらに大船で江戸の浅草まで運ばれました。
戦国時代においても、武田信玄は今川義元亡き後同盟関係を破り、今川家を攻めました。駿河を手中に収めることで京への道や物流のため海を得たかったといいます。
富士川は甲府盆地で笛吹川と釜無川が合流し静岡に向かって流れる川です。水量豊富で輸送手段として適していました。富士川による水運は江戸時代初期から富士身延鉄道(現JR身延線)が開通する昭和初期まで、およそ300年間にわたり山梨の物流を支えていました。
富士川水運の繁栄
鰍沢から岩淵までを馬や牛で荷を運ぶと、およそ2日(48時間)かかっていたものが水運を利用することにより6時間に短縮されました。また馬では1頭に積める米俵は2俵ですが、船は1艘で32俵も運ぶことができ輸送量も格段に増加できました。
富士川舟運の主要な河岸は、下流側の岩渕河岸に対して上流側は甲州三河岸と呼ばれる3つ河岸がありました。甲州三河岸とは鰍沢・青柳・黒沢河岸の3つの総称で、すべて現在の富士川町にありました。
また、舟は年貢米を積んで下り、戻ってくる時には内陸へ運ぶ塩を積んでいました。これを「下げ米」「上げ塩」といいます。
塩を積んで戻ってきた舟は、鰍沢の河岸で下ろすと馬に積まれて甲州街道を通り、甲州一帯や信州の諏訪地域へと運ばれました。
展示には、塩の小売りに使われた木箱や塩を馬に積み替える際俵を桔梗の形にすることで荷を崩れを防いだ桔梗俵などが展示されています。
こちらは船を繋いだ石です。自然の石の形を利用したものでしたが、だんだんとくびれが深くなってこのような形になりました。
流した船を引き上げる
流れによって川を下った舟ですが、どうやって舟を上流の河岸まで戻したのか気になるところです。「曳き舟」といい、下の絵図のとおり、人力で引き上げます。さらに塩など300貫(1トン)の荷物を積んでいました。舟下りの6時間に対して、曳き舟は3日~4日かかる重労働だったそうです。
また、曳き舟は4人1組の船頭で舟を流したので3人が引いて1人は舟に乗り操縦します。
角倉了似
富士川水運に関係する人物として、角倉了似がいます。京都の商人ですが、莫大な財力をもっていました。京都の保津川などの開削に成功していてその実績を買われ、家康の命により富士川にも舟が通れるよう開削工事を請け負いました。
富士川舟運は、1607年(慶長12年)に着手。富士川には難所が多く、工事は困難を極めましたが、5年の歳月をかけてを完成させました。
タテ流しとヨコ渡し
富士川水運ので静岡と往来し「下げ米」「上げ塩」のことを「タテ流し」ともいいます。
タテ流しに使われたのが高瀬舟です。 およそ13メートルあります。1/10縮尺の模型を展示しています。この模型の作者は石丸岳水だといいます。前述の「曳き舟」の絵を描いた人物です。
一方、「ヨコ流し」というのは対岸への渡し舟です。江戸時代、川に橋をかけることはありませんでした。かの大井川も人が担いで渡していました。
富士川ですが、橋の代わりの渡し舟が29カ所もあったそうです。
この「塩の華」の前を富士川が流れています。すぐ目の前にもヨコ渡しがあったそうです。
水運の終焉
明治36年、中央線が甲府まで開通し八王子経由で東京や横浜へ向かうルートが完成しました。
また、1920年(大正9年)、富士身延鉄道が静岡側である富士-身延間が開業しました。甲府まで全線開通は1928年(昭和3年)になりました。富士身延鉄道は1941年(昭和16年)に国有化され現在はJR身延線となっています。
甲府まで富士身延鉄道が全通すると富士川水運の役目は終わり300年の歴史に幕を閉じました。
舟運と連携した馬車鉄道
水運の時代の話をもう少しだけします。富士身延鉄道全通前の甲府と鰍沢の間には馬車鉄道が敷設されていました。
先に、甲府からは、身延線小井川駅の辺りまで馬車鉄道が通っていました。中心部の甲州街道から、遊亀公園、千秋橋、国母を通り小井川へ向かっていました。遊亀公園の先の緩い直角カーブは馬車鉄道の名残です。さら路線を伸ばし明治34年までに鰍沢へ達しました。
余談ですが、2027年開業が計画されているリニア中央新幹線の山梨県駅(仮称)は、小井川駅に設置されると期待されましたが、およそ500メートルほど離れた単独駅として決定しました。シャトルバスかBRTにて小井川駅と結ぶ計画になっています。小井川は再び乗り換えの要所となるかもしれない運命的な駅です。
おわりに
内容的には、山梨県立博物館の富士川水運の展示よりも資料が多いと感じました。山梨県立博物館では河岸からの出土したガラス瓶などの考古的展示が目を引くのに対して、こちらは物流として成り立ちや歴史の解説のほうに重きがあります。物流拠点の鰍沢こその展示だと思いました。
資料や解説パネルが多すぎて分かりにくい点はガイドさんが見学者の世代や興味に合わせてポイントを絞った解説をしていけば、よくなるのではと思います。