【歌舞伎文化公園】團十郎発祥の地の所以と天守風展望台
はじめに
甲府盆地を望む市川三郷町の高台に歌舞伎文化公園はあります。その中にひと際目を引く天守閣のような建物がふるさと会館です。
歌舞伎文化公園は合併前の三珠町が1994年(平成6年)に整備したもので、天守閣のような建物は史実に基づきません。あくまでふるさと会館という建物の一部で展望台という位置付けです。
しかしどう見ても城ですので、建設当初は物議をかもしたとも聞きます。そんな「天守閣」をトンデモ博物館のように紹介しようと思っていたのですが、職員の案内を聞くと亡くなった先代團十郎が熱心に関わり歌舞伎にちなむデザインが随所に盛り込まれていました。そこで市川團十郎のルーツと併せて真面目に紹介する次第です。
團十郎家発祥の地
山梨になぜ、歌舞伎をテーマにした公園があるのでしょうか。それは市川團十郎家(堀越家)発祥の地だからです。厳密には初代市川團十郎の曽祖父まで甲斐にいました。さらに系譜をたどると源氏の祖八幡太郎義家の次男義国までいきつきます。初代の曽祖父である堀越十郎家宣は武田の家臣で、功績によりこの辺りの地を拝領しています。武田が滅ぶと、堀越十郎家宣は下総国(千葉県)に逃れました。その孫が江戸に出て、その息子である蝦蔵(海老蔵)が初代團十郎を名乗ったと言われています。
このような團十郎家のルーツについては、1932年(昭和7年)に笛吹市一宮町の石原家の文書や系図から明らかになったといいます。
また、この公園の場所は武田信玄の異母弟である一条信龍の城地であり一条氏塁跡と伝わります。別名、上野城址とも呼ばれていますが、前述のように天守はありません。このあたりが上野と呼ばれていることから、甲斐上野駅(JR身延線)にもその名があります。
公園の奥には蹴裂神社が鎮座しています。蹴裂神社は、明治45年の東宮行啓でも立ち寄られているところで由緒のある神社です。
團十郎家発祥の地の碑
話が前後しますが、市川三升(没後10代目團十郎を追贈)は9代目團十郎の婿養子ながらも市川家のルーツを探求した人物でした。石原家の文書などから初代團十郎の出自が確認されると、この蹴裂神社に團十郎発祥の地として木製の碑を建てました。
また、市川三升の養子で海老様で有名な11代目團十郎も蹴裂神社に團十郎発祥の地として木製の碑を建てました。木製のため朽ちると作り直していたそうです。写真は市川八幡を訪れた時の様子です。
11代目の実子の12代目團十郎は1984年(昭和59年)朽ちることないよう御影石「團十郎発祥の地」の碑を建立しました。この碑は公園内の牡丹園の中で、成田山新勝寺の方角に向いて建っています。
12代團十郎は歌舞伎文化公園の整備に好意的で、公園内の歌舞伎文化資料館には市川宗家から多くの品々を寄贈しています。
三升紋と杏葉牡丹
市川團十郎の紋は定紋の「三升紋」と替紋の「杏葉牡丹」です。
三升紋は3つの升を入れ子に重ねたものです。諸説ありますが、外側が京枡に比べ大きい(通常の一枡の3升分)と言われてる甲州升、次いで京枡1升、京枡5合とこちらでは説明しています。
杏葉牡丹の紋は2代目團十郎のごひいきであった6代将軍徳川家宣の側室の側近から牡丹の着物を贈られたことにちなみます。その着物を着て演じたのが「助六」と言われています。
今も「助六」は牡丹の紋の着物で演じます。画像は歌舞伎文化資料館にある助六を再現した人形です。モデルは海老様こと11代目團十郎です。
歌舞伎文化公園
およそ2万平方メートルの敷地内に、ふれあい広場、ふるさと会館、歌舞伎文化資料館、ぼたん園などがあります。
ふるさと会館の多目的ホールは歌舞伎の公演も行える470人収容のホールです。ふるさと会館の展望台2階には考古資料室があります。
ぼたん園は市川家の替紋(杏葉牡丹)にちなむもので毎年4月末に見頃を迎えます。めめ
ふれあい広場は大型遊具があります。その名も「歌舞伎の砦」といいます。滑り台、ブランコ、クライミングなどが組みあわされた、まさに砦にふさわしい秘密基地のような遊具です。
芝生にカットにより三枡紋が浮かび上がるはずですが、夏の暑さですっかり伸びきっていてわかりませんでした。
展望台
この展望台ですが、12代目団十郎の監修のもと、歌舞伎座の建物のデザインを取り入れています。特徴的な2つの屋根や唐破風も取り入れてあります。
歌舞伎座の写真と比べてみてください。
唐破風の先端は鬼瓦や鯱ではなく、演目「しばらく」の隈取りイメージです。
また、漆喰部分には団十郎家の替紋である牡丹が取り入れられています。
正面から入ると、ふるさと開館の事務所兼受付があります。料金はこの展望台と別棟の歌舞伎文化資料館の見学がセットになっています。
13代目團十郎白猿と8代目新之助の襲名のお祝いが掲示してあります。13代目には一日も早く團十郎としてこの地に訪れてもらいたいものです。
ふるさと会館は展望台とホールから構成されています。
展望室は4階になっており、3階は旧会議室、2階に考古資料室があります。また、ホールの手前には「一城」という民営のお食事処が入っています。
エレベータで4階まで一気に上がります。晴れていたので景色がすばらしいです。
南アルプス方面は、鳳凰三山、八ヶ岳、茅が岳が一望できました。八ヶ岳はには雲がかかっています。
次に甲府方面です。一番奥に金峰山が見えます。金峰山は御嶽昇仙峡の信仰のほか水晶の産出地でした。
金峰山について平成31年の歌会始めで天皇陛下(当時皇太子)が詠まれた和歌が紹介されています。
旧市川大門町の市街地方面です。山も近く住宅が多くなっています。
残りを一周見ると、多目的ホールとふれあい広場が見えます。
帰りは階段で降りみます。
階段の壁面には「ぼたんの花まつり」のポスターが並んでいます。感染症対策により中止もありましたが毎年4月に開催されてきました。
考古資料室
2階に考古資料室があり、旧三珠町に関する考古資料を展示しています。そのため展示は三珠町の前に「旧」のシールをつけたのがけっこう目立ちます。
配置図ですが、建物の構造上周回する展示です。
縄文、弥生、古墳時代、中世の展示のほか、近代のゆかりの偉人まで網羅しています。
こちらの展示はあらためて紹介したいと思います。
多目的ホール
受付のあるエントランスから多目的ホールへとつながっているのですが、公演もしばらくないのでしょう。立ち入りは出来ません。
かつては12代目團十郎がこけら落とし公演を行いました。歌舞伎公演が行える470人収容のホールです。
ホールの緞帳は市川家にちなむ牡丹に蝶が舞うもので、京都西陣織り作られたものです。
エントランスでは「一城」という御食事処が営業しています。
おわりに
天守風の展望台の紹介のつもり筆を進めたつもりでしたが、團十郎家の紹介になってしまいました。ただ、10代目、11代目、12代目は発祥の地としてこの地を大事にしていたので、紹介したくこのような記事になった次第です。
考古資料室、歌舞伎文化資料館についてはあらためて紹介いたします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?