【都留市商家資料館】織物問屋の和洋折衷の建物
はじめに
都留市は郡内地方と呼ばれる山梨県の東部地域の中心都市でした。JR中央線に駅のある大月市や富士山の近い富士吉田市に比べると地味な存在になっていますが、現在でも都留簡易裁判所や都留区検察庁、山梨県運転免許センター都留分室があるなど東部地域の行政機関は都留市に集まっています。
そんな都留市の車が行き交う国道139号線に沿って建つ織物問屋の建物が都留市商家資料館です。
城下町の面影
都留市の中心部である谷村町というこのあたりは谷村城の城下町として栄えたところです。江戸時代に幕府の直轄領になるまでは谷村藩がありました。直角にクランクした道路は敵の進入を防ぐ城下町の街づくりです。
谷村城の始まりは、最近の研究ではこの郡内地域を支配した小山田氏の館であった谷村館と言われます。現在の谷村第一小学校と都留市役所の辺りです。また戦時の山城として勝山城も用意されました。
小山田氏というと、小山田信有が武田勝頼を死に追い込んだ逆臣とされてきました。しかし、近年は小山田氏の評価も見直されつつあります。
さて谷村城・勝山城は戦国時代から江戸時代にかけ、豊臣系大名や徳川家と領主が変遷し、特に豊臣政権下では甲斐国は徳川に対抗する最前線として重要視されていたことから、江戸時代に入ると甲斐は幕府の直轄領とされました。藩が廃止されると谷村城も勝山城取り壊されました。
旧仁科家住宅
谷村町は郡内織(甲斐絹)と呼ばれる絹織物の生産が盛んでした。そのため商人が支店を出すなどしており、藩は廃止されても城下町のころと変わらず郡内地域の中心として栄えていました。
商家資料館として公開している建物は、旧仁科家住宅と呼ばれ、何件かあった絹織物問屋のうちの一軒です。谷村町議会議員を務め郡内織物会社(絹織物仲介業)を経営していた仁科源太郎が建てた住居兼店舗です。1916年(大正5年)~1921年(大正10年)と6年にわたり建築され、和と洋のデザインが随所に見られるのが特徴です。
旧仁科家住宅は1993年(平成5年)に市有形文化財に指定されました。その後仁科家より都留市に寄贈され、都留市商家資料館として公開されています。
都留市商家資料館
都留市商家資料館は、車が頻繁に行き交う国道139号線に沿って建つ古い商店の建物です。主家は間口8間、奥行6間の延べ79坪で、瓦葺、切妻屋根の二階建、土蔵造りです。
まさに古い商店に入るように店舗部分のガラスの引き戸から入ります。年配のガイドさんがおられて説明してくれます。
建築様式は、書院造りの和風部分と接客の際に用いた大壁造りの洋風部分の和洋折衷になっています。絹織物の商売で財をなした仁科家が粋を集めて作った建物であったと考えられます。
見学順路の案内図があります。これで見ると間取りがよく分かります。
1階は店舗部分と座敷、居間、洋風の応接間など、2階は和室が6間あります。建物裏に洋館風の離れになったトイレがあります。
店舗部分
店舗部分は、間口5間半の入口に面した土間と16畳の部屋になっています。資料によれば、集荷された織物の柄や長さ、キズ有無などの検査や積み荷の間として使われました。
天井まで高さは3.3メートルあります。「甲斐絹」とある大きな額は織物協同組合にあったものを寄贈されたものです。格子つきの帳場机の上には文箱などがあります。ケースには得意先控え、注文書、取引小切手帳、生地の見本などが展示してあります。仁科家の取引先は、中国、台湾、サハリン、朝鮮半島などアジアを中心に海外へも販路があったようです。
土間から畳までの高さは68センチと非常に高くなっています。現在ではあれば、水害への備えを想像しますが、荷車に積みやすくするため高さを合わせたものだといいます。
資料によれば、基礎部分には、切石を二重に回し、その上に栗材を土台として欅のかまちを置いています。かまちは継ぎ目のない4間半の一本の欅が使われています。
座敷
店舗部分のすぐ奥が座敷で書院造りの10畳間です。床の間は9尺で床柱には鉄刀木が使われています。床の間に置かれている物は黒檀の花台、中国製の花瓶、孟宗竹の花瓶です。
付書院に使われている組子細工も見事です。2種類の組子細工が施されています。資料によれば、この組子細工は名工として名高い「並木の庄ちゃん」と呼ばれた職人の作ではないかと言われています(二代目源さんと呼ばれた名工佐藤重雄氏談)。
床の間は幅9尺です。よく見ると畳も1.5畳の畳を2枚です。床の間に対して畳の継ぎ目が無いように特注したものです。
また、画像はありませんが、屋久杉の正目を使った天井板など建築材にもたいへんこだわっています。
居間
画像は用意できませんでしたが、座敷の隣には居間として使用していた部屋があります。大型の金庫が置いてあり、事務所的な機能も兼ねていたといいます。現在はガイドさんの机などもありまさに、事務所になっています。
応接間
蔵造りという日本風建築の中に洋間が設けられています。「応接間」と「仏間」です。和洋折衷のこの建物の一番目を引くのが応接間ではないでしょうか。
洋風の応接間は当時としては珍しいものでした。仁科源太郎の外国との商取引を通した体験が住宅を建築する参考になったているのではといいます。
絨毯の敷いてある床は、絨毯の厚みを考慮して隣の床と同じ高さになるように作られています。また、暖房として石炭ストーブがあります。
応接間への入口は、店舗とは別に造られており、直接出入りすることができます。
天井は漆喰塗りの部分に金属製の枠が周囲を縁取っています。照明は天井枠部分に光源を取る間接照明だといいます。現在は点灯しないため薄暗いですが、大変柔らかな明かりが部屋全体を照らしており、当時とすれば非常に珍しい方法だったといいます。
来客用入口側には、色ガラスの出窓がついています。
来客用入口側から見た出窓です。色ガラスなど何種類ものガラスを組み合わせていることが分かります。
仏間
応接間の奥が仏間になっています。なぜ仏間も洋間にしたのかはわかりませんでした。
裏の廊下に面した色ガラスの前には歴代天皇の御影が飾られています。
応接間の暗くてガラスの色や模様も分かりにくかったのですが、明るいところでよく見ると模様の異なる柄ラスを4種類ほど使っているようです。しかも幾何学的にはめ込まれています。
また、応接間にあった石炭ストーブは仏間との間に置いてあり、両方の部屋を同時に暖めるように工夫されています。床板は2色の板を交互に組み合わせています。
廊下とトイレ
廊下の板はすべて欅の板が使われています。天井板は、室内と同様に屋久島産の杉板が使われています。また、板ガラスは、当時のものでよく見ると少し歪みがあります。現在では同じガラスを入手できないので割れてもまったく同じように修理はできません。
短い渡り廊下でつながった洋館風の小さな離れはトイレです。まるでレトロな開業医の建物のようにも見えるため初めはトイレとは気づかないです。内部は男女別に分かれていて、便器はまさしく洋式に改装されていました。
2階から見たトイレです。右が渡り廊下です。内部で一周して母屋に戻ります。どうしてこのような構造なのか分かりませんでした。
この模様の入ったオブジェのようなものは不明でした。壁や窓もトイレとは思えないほど凝った意匠です。四角い柱のような台のようなものにも装飾がありますが、用途は分かりませんでした。
裏には土蔵が2棟あったそうですが、現在は取り壊されて駐車場になっています。
2階の部屋
2階へ上がる階段は店舗から上がる階段と反対側の廊下から上がる階段の2ヵ所あります。どちらから上がっても2階の中央に出ます。
階段を挟んで左右に6部屋あります。寝室や茶の間として使われていたといいます。現在は民俗資料館的な展示に利用されています。雨戸が閉じられていて暗いです。雨戸には防犯に強い金属板が使われています。
国道に向かい左側の2部屋には、昔の生活用品などが展示されています。昭和初期の蓄音機やレコード、扇風機、計算機、炊飯釜やホットケーキ焼き釜、ご飯の保温籠、米櫃、木鉢、アンカ、お櫃、ちゃぶ台等です。
この看板には「弁達ホテル」とあります。かつて都留簡易裁判所の前にあった昭和5年建築の木造3階建てで一部洋風に仕立てた旅館のものです。
右側の4部屋のうち手前の部屋は地場産業の絹織物の展示です。明治45年当時の甲斐絹の種類別生産地図、染色工場の布地見本などを展示しています。
奥の3部屋には日露戦争戦勝記念盃、べっ甲製品、手回し映写機、昔のこの地域の学校の写真などがあります。
かつて都留には造り酒屋が2軒あり、そのうちの1軒「富士谷泉」の工程図や酒造所の写真があります。城下町だったため献上する造り酒屋があったのだといいます。
仁科家家紋入り重箱と盃のほか、市内の方から寄贈された九谷焼なども展示されています。
床の間は1階と同様に9尺・6尺のつくりになっていて、床柱には黒柿が使われています。
おわりに
和風の建築に洋風の応接間を組み込んだ珍しい和洋折衷の建物でした。また、年配のガイドさんはこの地域のことを良く知っている方でたいへん勉強になりました。
都留市には保存建築のとして尾県郷土資料館もあります。こちらも地元の方たちが守っておられます。
参考資料
都留市教育委員会「都留市商家資料館配布資料」
都留市商家資料館「都留市商家資料館便り No.1」2016.6
都留市商家資料館「都留市商家資料館便り No.2」2017.12
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