『時世の抄』VO.1
0.交点
誰の為でもなく、必要なことは時間の中で見つけたし、代わりに失うものもあったし、連続性こそが世界の成り立ちなんだなと思うこともありました。
書き物をしていると、色んな自分が内面的に浮き彫りになって、テーマを与える度に色んな解答を思い付くし、AIに質問を投げ掛けることとはまた違ってくる。
人だからこそ、出来ることがあるし、出来ないこともある。
自分は出来ないけど、他人には出来る。
また、その逆もあったりする。
何でだろう、どうしてだろうと、しっくりとくる理由を知りたがっていたのは数年前の自分で今の私とは違った存在のように思えてくる。
存在というのは、確かにあったし、存在があるからこそ、今があると確信する。
過去から現在への到達地点から、ふと後ろを振り返ろうとする。
そこには、何もない。
あるのは、現在の着地点のみであり、後ろには厚い壁で覆われており、壁の向こう側での記憶はやはり断片的であって、はっきりとは覚えていない。
覚える必要はなく、忘却するからこそ、人はこの先も生きていける。
動機なんてものは存在しなく、一瞬一瞬の実感さえ味わうことさえ出来れば満足だろうなと思います。
1.趣味性の核心
趣味を持つことについて、私は過去に‘‘趣味の楽しみ方’’という記事を書いたことがあり、それを自分で読み返しながら、趣味とは何かということをずいぶんと考えていました。
趣味の楽しみ方というタイトルを記したこともあり、楽しみということを踏まえると、趣味とは専門性が求められるわけではなく、個人にとっての楽しい事柄を指す言葉であることを改めて認識させられました。
趣味をたくさん持てば、楽しむ回数は自ずと増えるものですし、人生にとっての付加価値が蓄えられ、経験として自己成長へと繋がっていくものだと考えられます。
私は読書することを生きる上での楽しみ、喜びとして実感することがありますが、読書に関して専門的な知識があるわけではありません。
ただ、専門性としてではなく、あくまでも趣味として捉えることによって、楽しみとして捉えられていると感じます。
専門性に到達せずに、楽しむ為の娯楽として留めることによって、趣味の価値は大きな意味を持つものになると感じます。
2.橡
考え続けることを中断すれば、書かなくて済むし、そもそも書く必要などないものだと思う時がある。
使命感というのが、私の心を少しずつ苦しめていると感じることもありますし、喫茶店に寄って美味しい珈琲を飲んでも美味しさも風味さえも感じられずに、自分は本当に珈琲を飲んでいるのかという疑問さえ浮かぶこともあったりします。
そうしたモヤモヤは、常に私を縛り付けているような感じがするし、そもそもこの感情はなんだろうとさえ思ったりする。
自分のことが分からなければ、他人が何を考えているかなんて想像がつかない。
私たちはこうした曖昧な世界にいて、どうでもいいことに悩んだり、苦しんだりする。
喜びや感動はその時の一瞬で消え失せるのに、悲しみや苦しみはずっと心に留まったりする。
何もしない状態を意図してつくることは難しいことであったりする。
何もせずに、考えもせずに過ごすことが本当の幸せなのかもしれない。
3.フリーレン
葬送のフリーレンを見返していた。
途中まで見ていたのですが、途中話から見るのをやめてしまって、録り溜めしていたものを1話目からもう一度見ているという感じでやはり面白くて楽しんでいる。
アニメやドラマなど、途中で見なくなってしまうと結果全部見ることなく録画していたものも結局全て消去してしまうことになるのがフリーレンは消さずに全話見ておいて良かったなと思いました。
OP曲のYOASOBIの「勇者」を聴きながら、フリーレンの世界観に込められた‘‘百分の一の旅路’’や‘‘勇者’’、そして、フリーレンの8話は本当に神回だったなと改めて痛感しました。
あとは‘‘葬送’’という言葉によるダブルミーニングの意図をようやく理解したり、アニメやドラマ、映画でもそうだが、一回だけ見ても内容を隅々まで理解することは難しく思う。
だからこそ、見返すことは新しい発見があるし、これまでになかった知性が養われることだろうと感じました。
4.流浪のように
本を読む時間、本を読む機会がそもそも失われているような感覚、それどころか本を買う頻度がだいぶ少なくなってしまったと思うことがある。
本を読むことを積み重ねていく経験は後に自分の為になることは20代後半からようやく感じるようになった。
それが、遅いのか、早いのかは、よく分からないし、気付けたことに意味があるものだと考えることもありました。
決して本だけじゃなく、映画や音楽、アニメ、料理、スポーツ、一つのことにのめり込み突出させることは並大抵のものではないと思った。
それは、自分以外の自分よりも凄い人の存在があったから変わり続けることは成長することだと思えるし、又は逆も同じだと思う。
今は、変われなくても、変わることはいつからでも遅くはないし、変わることには必ず意味があるものだと感じている。
私は、本を読むことや書くことによって、そうしたきっかけを自ずと作りだせるものだと思っています。
だからこそ、この二つだけは一生大切にしていきたい。
5.古色
断片的にすぎないこの記事の作成に取り組みながら、思考はまた違った働きによって、頭の中で別のことを白紙に書き記している。
書き記しているものは、脳内に留まり続けており、たまに頭の中のメモ書きを確認したりしている。
メモ書きは、自分にしか知らない情報がたくさん記されているし、他人に見せることは決してないから自由に色んなことが書けるから気楽なものだと感じています。
脳内のメモ書きの文章をそのまま、noteに書き写すこともあるし、もう一度推敲してから書くこともあります。
書いたものは、私なりにこれはオッケーだと自分なりに認めたものであり、ふとあの表現はもう一度書き直したいと思えば書き直すし、その時の感情によって左右される場合もあります。
何故、書くのか、書き直すのか、そうした答えは全て書いたものに込められている。
6.『青春18×2 君へと続く道』と「記憶の旅人」
映画ばかり見ている、ただ映画に求めすぎている周期に入っていると自覚している。
それは、読書だったり、音楽だったりと気分的な話になるのだが、私は映像の世界の中へ、精神を没入させて投影させて、別の世界にいてその世界の景色を見たり、人々の会話に耳を傾けながらも過ごしている、そんな感覚があるという感じだ。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去る故に、現実の私から離れて別の私でいたいという気持ちがありすぎるが為に私は私に問い掛けている。
混沌とした湖の中に足を踏み込み、抜け出せないそんな場面が何度もあったりする、もがいてももがいても抜け出せないそんな状態に私は何かを求めている。
求めているものを探しても、何も見つからずに途方に暮れながらも、私は自分の中の心の声を聞くことに努めようとする。
映画は直接、脳に訴えかけるものがあり、イメージをせずにイメージが出来上がってる為、映画は見ることで感動的な気持ちになれるからいい。
『青春18×2 君へと続く道』という映画を映画館で見たのだが、涙が溢れ出して止まらなくなった、そういった瞬間は何も言葉が出てこなくなった、涙だけが流れ続けて、ジミーやアミちゃんの気持ちに触れることで今の私は私ではないような気がした。
これが映画の力なんだと改めて痛感させられました。
ミスチルの「記憶の旅人」という曲が流れた瞬間、私はもう一度涙しました。
7.愛を巡る愛
そう言えば、先日『不死身ラヴァーズ』という恋愛映画を見たのですが、これがなかなか面白い映画でありました。
恋愛というものは、定義によって形や性質、状況、場面によって異なるものを示す時があると感じます。
本作の『不死身ラヴァーズ』では、りのという彼女の純愛が多彩に描かれており、彼女が思いを寄せるじゅんは特別な存在であり、両思いになってしまうと彼は消えてしまうというかなり奇妙な設定の物語なのですが、違和感なく楽しめるものがあり、こうした違和感なく楽しめる理由はなんなのだろうかと考えたりしました。
両想いになると消滅するじゅんを何度でも見つけては愛そうとするりの心理を考察すると色々と分かってきたこともありました。
不可解な現象に動じることなく、じゅんをより好きになろうとする彼女の真っ直ぐな純愛、これこそが本当の愛なのではないかと思いました。
不在の愛はじゅんの記憶からも消えて、そうした日常は淡々と描かれるこの世界に私は魅了されていました。
りのはそれでも‘‘好きな気持ち’’は変わらず、好きで運命を変えようとする彼女の思いに感動させられました。
8.飽和していく故に
様々なコンテンツから、アイデアを発想しているのだが、最近コンテンツ過多になり過ぎてどれから最適な情報を抜き出して形にするべきかということについて考えていたりします。
クリエイターにとって、自分の得意分野を活かした創造物を世に提供すれば、それでいいのではないかという考えもありますが、私は自分でも自覚するぐらいの飽き性でもあるのでコンテンツをコロコロと変える癖のようなものがあると実感しています。
コンテンツが飽和状態であるというのは、考え方を見直すとかなり恵まれた環境下のように思えます。
たくさんの選択肢がある一方、どれが自分にとっての最善策であるかということも分かりようがありません。
主観性と客観性の両者の特性を仮にも備えられば、分かることもあるかもしれません。
自分と他人の見える世界はまた別の世界として見えている。
見える世界と見えない世界の裏側に何があるのだろうか。
9.無題
常に先のことばかりを考えながら、これまで生きてきた。
それは、将来に対する自分のことや両親のこと、仕事やこの先の未来について。
誰しも、予測出来ない不安感のようなものに心が圧迫される瞬間というのはあるかもしれない。
考えようとしなくても、頭の中で自ずと考え始めてしまう。
これこそが、生きていることでもあり、人が人であるゆえんなのかもしれないとそう感じます。
感情が心を縛り付けて、自分を苦しめているのか、はたまたそれはただの妄想なのか。
妄想であるのであれば、ありがたいし、妄想でありたいと何度も考えてきたけど、それは現実を直視したくないが為の逃げでもあると感じた。
戒めでもなく、私は私の意思でここまで生きてきたし、本や映画、音楽も私の中の出会いや選択によって私個人が培われてきたのだと思いました。
言葉には、表現出来ないものがあり、私はそのような非言語的なものからは避けながら生きることを心掛けていた。
何故、避ける必要があるのか?
それは、私が非言語的だと勝手に捉えているからだとそう気付いた。
非言語だと捉えれば、それは考える必要はなく、思考の枠組みから除外されるからである。
積み重なった非言語の山々の処理をする為には、それを言語化する必要がある。
言語化には、己と向き合うこと、ただそれだけでいいのだから。
10.変化とその日
求められなければ、それは単なる受け身だと感じた。
読書も映画も音楽も受け身のようなものであり、自らが求めなければ、何も入ってくることはなく流動的にも私たちは常に何かを全身に流したい欲のようなものがあるような気がする。
情報や感受性、そうしたものは確かに外界からの刺激がなければ博識になったり、感性を磨くことも困難であり、私にはこうした自分を内側から否定して何者かになりたい願望というものも持ち合わせているのではないかと感じることもありました。
生きることの喜びや死への恐怖心、対極的なものと隣り合わせでありながら、人と人との繋がりがそうした感情へと直結させているのではないかと考えることもあります。
最初にも言いましたが、求められる心理というのは私たちの心へと根付いているものがあり、本当は求められるのではなく、求める心理へと変わらなければいけないのではないかと思いました。
そうした微妙な心のズレを埋め合わせするものは人によっては異なるだろうし、それもまた多様性という言葉で置き換えられるだろうと感じます。
私たちは何者であるかということは、誰も知らないだろうし、きっと誰も気付いてはいないだろうと思う。