【‘‘ファスト教養化の社会’’】
効率的に教養を身につける方法というのは存在するのだろうかと、ふと考えてみた。
恐らく、答えはNOである。
教養を身に付ける上で考えられることは、情報収集のスキルを磨いたり、時間を節約しながら幅広い知識を蓄えていく方法はあるだろうが、教養を容易く身に付けるには困難なことであります。
私たちは、ファスト教養において楽しむことの自由を縛られていると考えられます。
例えば、仕事で忙しい日々を送る中で、職場で良好な人間関係を築くことは難しいことであり、幅広い知識を通じて人の感情を理解し、豊かな人間関係を構築することは可能であることを知っている為に、手段としてファスト教養を使ってしまう原因となっています。
『ファスト教養』を読み改めて感じたことは知識=教養という構図で知識をたくさん蓄えることで自ずと教養が身に付くということは誤った考えであり根幹としてある源流から手順に沿って自然に知識を拾いつつ体系的に知性へと変換することで初めて教養が身に付くものなのではないかと考えることがありました。
『花束みたいな恋をした』における麦の‘‘ファスト教養化’’の原因は麦の就職から仕事の忙しさによる社会の飲み込まれ方によるものだと感じました。
仕事と趣味の両立は難しく麦の文化的な営みは自ずと変容し実際に両立させることは不可能に近い。
ファスト化がもたらす社会的影響はかなり大きいものであります。
ファスト教養や倍速視聴にも見られるが私たちの文化的な営みにおける価値基準は、お金よりも時間が重要視されている傾向にあり、まさにタイパ主義な社会的背景になってしまったのは『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にも述べられている通りである労働、働き方による問題へ繋がり明確化されます。
ファスト教養は本質的なものを捉えずに、断片的な知識だけを拾い集める作業にすぎないものだと思います。
断片的な知識から派生させて、それに通じる知識を収集していき思考力を養う必要があるのではないかと考えられます。
何故、ファスト教養ではなく教養が重要か。
理由はそういうことなのではないかと感じました。