[エッセイ]【‘‘抽象性の肖像’’/私というかたち】
言語的にも機能性が働かないものが脳裏を過ることがある。
そうした着想を捉えて、文章化させることが創造の役割であると思いつつもそれが出来ない。
何故、それが出来ないのか、何故なら‘‘抽象性’’であるからであります。
この抽象性は、様々なところに潜み、溶け込むところがあり、まさに生き物のような印象を常に受ける。
分かりにくさというものは、一つの障壁とも考えられますが、こうした障壁は崩す必要性はないと私は思います。
手触りや厚みからして、それほどの壁ではないように思えても、多層的な構造となっており、内部を探らずともそれは体温から伝わるものがある。
書くことについては、これまで色々な論考として書き連ねてきましたが、言葉や形にできないものに直面した時、そうした抽象性を描くためにあるものが書くことの本質の一部だと私なりに考えているところがあります。
そして、わたしを巡る問題について、言い換えれば、わたしという個人の自己回帰による問題は、‘‘抽象性の肖像’’または、私というかたちとして浮かびあがっていきます。
感情や思念とは別に芽生える憂いこそ、表現の源流であり、そうしたものを書く行為によって、自己の心の声を消化させていくことを求めている。
複製されたものは、私の分身でもあって、トレースは本来あるべき目的であり、私たちは書くことで自分を知るきっかけとなるものだと考えてきたところがあります。
胸の中にある、記憶や思い出から、いくつもの抽象性が枝分かれしているようなこの感覚。
感覚は、複数の神経回路へと伝わっていき、やがて過去から今へと、漂着する。
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