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枠にとらわれない生き方①おしゃべりなドイリー


価値のないドイリーとその背景

ある東京の蚤の市でのこと。籠一杯に雑に放り投げ出された大量の古い手作りのドイリー(どこの国のものかもわからない)が安価で売っているのを見かけました。それらは過去の誰かが様々な技術を駆使し想いを込めて作られるようですが、もはや野暮な烙印を押されたドイリーは骨董の世界でも人気がないようでした。私は実家に大叔母が残した大量のドイリーがあることを思い出しました。

ドイリーはイギリスを起源にする装飾的なマットや敷物のことです。名前は17世紀の布商人ドイリー(Doyly)家に由来しているのだそう。当初は器の下に敷く小さな布製のマットとして使用されていました。時代と共にドイリーの用途は拡大し、現在では小形で装飾のある敷物全般を指すようになります。レース編みの技術が向上し、ビクトリア時代(18世紀)に上流階級家庭での人気&必需品となり、女性の手仕事として発展しました。貧しい女性たちが家計を助けるために、修道院や孤児院で女性たちの収入源としても広く教えられました。近代日本でもドイリー含むレース編みの技術は西洋から女子教育の一環として導入されています。このようにドイリーは女性の経済的自立を支える重要な役割を果たし、そして一般家庭にも普及、女性が愛する手芸の一つとして世界全体に流行しました。
しかし現代では生活習慣が合理化され、過剰な装飾のドイリーは必要とされていません。懐かしい過去の手作品となりました。皆さんの家にも母親、祖母が作ったドイリーが存在していたのではないでしょうか?


大叔母のドイリー

私の実家には大量のドイリーが残されています。大叔母(父の母親の兄弟の妻)が残したドイリーです。今までドイリーに関してあまり興味がなかったのですが、残されたドイリーがあまりにも大量であったのでそれを制作した人に興味が沸き、彼女の生涯を調べてみました。

大叔母の古田富子(1915年生まれ)はハワイ日系2世。アメリカ職業軍人だった私の父方祖母の弟(彼もハワイ日系2世)と第二次世界大戦後すぐ知り合い結婚。結婚前は床屋を経営し、弟妹や家族を養っていましたが結婚後は夫の仕事の関係で戦後すぐに日本の米軍基地(立川や代々木にいたそう)へ。そこでの専業主婦時代にかぎ針編みのドイリー作りにはまっていきました。ベットカバーなど大型のかぎ針編み作品もたくさん作ってくれたそうです。お手伝いさんもいて当時としては裕福な環境の中、家庭の中だけの世界で暇を持て余し手芸にはまっていったようです。ドイリー含む手芸と女性の社会進出には大きな関係があると思います。その後ベトナム戦争中60年代終わり頃日本を離れハワイに帰りました。そこから亡くなる98歳までハワイで過ごしています。

叔母の編んだドイリー(もっと大量にあります)


富子の娘(私の従伯母)によると彼女は行動的で学歴のない夫を裏で支えた利発的な女性だったそうです。戦争中含む戦前戦後の話は一切語りたがらず、日系移民としてアメリカで生きるという複雑な状況の中、娘からもそれを問いただす様な雰囲気ではなかったということでした。戦前戦時中はアメリカ、戦後は日本、そしてまたアメリカへと移住の人生はどうだったか、職業軍人の夫を持つ彼女にとっての怒涛な戦争時代を聞きたいと私は思いましたが、それはかないませんでした。
ただ彼女の作った大量のドイリーだけが残されました。

ドイリーは語る

残されたドイリー達は沈黙し何も語らないけれど、ドイリーを通じてハワイに住む70代の従叔母と再び繋がり、戦争について再考する機会をもらいました。
ひと針ひと針、端正に計算された編模様が美しい家庭的な丸い小さい世界。私も編み物が大好きだからわかるんです。彼女は日々編み続けることで精神を安定させ、心を整えていたのだろうと。ドイリーの網目を眺めていると当時平凡な一般女性の平凡ではなかった強い生き様、思いを想像することができます。制限ある社会の中で美しく生き抜いた過去の女性達のおかげで私たちが存在し、少しだけでも以前より自由を勝ち取っていることも。
そしてその思いを私自身の未来の生き方に変えることも可能です。
私は彼女作ったドイリーの一枚を広げ、蜘蛛の巣に見立て壁に貼り付け、

IS THIS THE EXTENT OF MY FREEDOM?
あなたの自由の範囲ってこれくらいなの?

という装飾的な刺繍を貼り付けた作品を作りました。
タイトルは「ドイリーは語る」です。ドイリーは実は挑戦的なおしゃべりかもしれないです。2024年10月の個展に展示する予定です。
鑑賞する人たちが少しでも自分の自由とその範囲について気づき考えてくれるとうれしいなと思います。

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