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カミングアウト

自分がパンセクシャルだとはっきり認識したのは昨年の年末辺りからだ。パンセクシャルとは日本語で「全性愛」恋愛対象に性別のこだわりがないというセクシュアリティだ。ときどきバイセクシャルかなと思うときもある。セクシュアリティはグラデーションで、流動的だ。
ともかく認めたことですごく楽になった。女性のアイドルや俳優を見てステキだと思ったり、女性とパートナーシップを築くことを考える自分に自信を持てるようになった。

思えば中学生くらいの頃から違和感を感じていた。自分はヘテロセクシャル(当時はこんな単語も知らなかったけれど)には当てはまらないかもしれないな、と漠然と思っていた。今はあんまり男性と恋愛することに興味ないかも、と。当時レズビアンやバイセクシャルにもしっくり来なかった。パンセクシャルというセクシュアリティが存在することは知らなかった。この違和感は大人になれば、自分が恋愛する準備が出来れば、消えると思っていた。当時たまたまテレビで観た『Juno』に出ていたエリオット・ペイジが好きだった。

いきなり話が逸れるようだが、自分の過去の恋愛を思い返して、相手を‘男性’や‘恋愛対象’という記号で見ていたのだなと愕然としたことがある。二年ほど前の話だ。今まで人間対人間の関係を築いて来なかったのではないかと思った。
気づいたきっかけはGIRLSというドラマだ。ドラマの中で、主人公のハンナがセックスフレンド的存在の(ハンナは恋愛関係を望んでいる)アダムを「なんで断酒会に行ってるって教えてくれなかったの?」と問い詰めるシーンがある。アダムの答えは
「お前が聞かないからだ。お前、俺に興味ないだろ。質問といったら”このスカーフどう?”とか”気持ち良い?”とかばっかり。セックスするだけで、俺の事を知りたいなんて思ってない。」
そこでハンナは気づくのだ。今まで自分はアダムという人間自身を見ておらず、アダムの目を移し鏡にしてそれに映る自分を見たかっただけなのだと。その会話以降なんだかんだで付き合うようになってからのアダムは、それまでの掴みどころのない不気味なイメージと打って変わって、人間らしい愛らしいキャラクターになる。

もしかしたら私もそうだったのかもしれない。”恋愛対象”という意識が先行してしまって相手は自分をどう思っているだろうか、ということばかり考えていた。自分から誰かを好きになるときは一目惚れや直感が多く、いつも相手の事をよく知らなかった。親しくなってからやっぱりお互い合わないな、というのが多々あったし、そもそも親しくなれないで終わることもあった。
また10代後半から数年前までの私は精神的に不安定で、自分の心の隙間を埋めてくれる存在を探しているようなところがあった。まさに依存体質だった。恋愛に幻想を抱きすぎていたのだと思う。いつか自分にぴったりの人が見つかってすべてが上手く行く、と。そんな考えを持っているとやはり相手のことが見えていない。自分のためだけの関係だったのだなと思う。過去関わった人たちには申し訳ないことをした。
それで決めたのだ。これからは恋愛するならまず人間対人間として信頼関係を作ってからにしよう、と。

その後『82年生まれキム・ジヨン』を読んでフェミニズムに目覚め、それまで楽しんでいた日本のお笑いやテレビ番組が楽しめなくなった。日本のエンタメにいかにセクシズムやホモフォビアが蔓延しているか、初めて気づいた。それから観るエンタメがKpopや海外ドラマ・映画だけになり、”女性らしさ”やヘテロセクシャルの固定概念からどんどん開放されて行った。今までの”女性はこうあるべき”という重荷を取り払い、まさに生まれ変わったような気分だった。

『sex and the city』のシンシア・ニクソンや『グレイス&フランキー』のリリー・トムリン、クリステン・スチュアートのファンになり、彼女らに女性のパートナーがいることを知って素敵だなと思った。
シンシア・ニクソンは男性と結婚していたこともあるが、今は女性と結婚していることについて聞かれて「相手が女性だったからでなく、彼女だったから好きになった」*¹と答えたという。この言葉に私はすごく共感した。心の奥でくすぶっていた私のセクシュアリティへの違和感はここでまた姿を現した。

ツイッターでフェミニズムや女性同士のパートナーシップについて発信している@mlookslike_ *²さんのツイートもきっかけになった。彼女自身もデミロマンティックという恋愛指向を公表していて、女性のパートナーを持つ人だ。

ある日ツイッターで「女性が社会で自分らしく生きられないことと、BLは切り離せない関係」*³という内容のツイートが回ってきた。その記事によると多くのBLファンが惹かれるのは男性同士の恋愛という点ではなく、その同志的・平等な関係性なのではないかという。異性愛では恋愛の平等性が描かれにくいのだそうだ。「少女が真に憧れるのは恋愛以上にパートナーとの同志的関係」この一文にまさに、と思った。”同志的関係”とはまさに私が望んでいたパートナーシップだった。それまで同志や親友と思える人は圧倒的に女性が多かった。だったらその女性と、一番分かり合える存在と、人生を共にしない手はないではないか、と思った。

それでもまだ自分のセクシュアリティに自信を持てなかった。女性とパートナーシップを築くイメージがいまいち持てなかった。
その頃観たのがYoutubeの「わがしチャンネル」*⁴だ。MikiさんとKanaさんという方々のカップルチャンネルだ。ふたりの日常であるデートの様子やモーニングルーティーン、一緒に語学留学へ行った様子などの動画がアップされている。
この二人がとにかく良いカップルなのだ。姉妹や親友同士みたいにふざけ合ったり、ときに二人の絆や努力して築いてきたこの関係についてアツく語り合って二人で泣いたりする。日常の小さなことでも「ありがとう」と笑顔で言い合う。このビデオを観てやっと思った。私が望んでいたのはこれだ、と。なんというか、ゲイでいることってもっとドラマチックで大ごとかと思っていた。でもMikiさんとKanaさんは良い意味で普通に生活して、男女のカップルと何ら変わらず関係を育んでいた。このチャンネルで、私の中にあったクィアカップルへの偏見が無くなったと思う。

同じ頃Netflixでドラマ『セックスエデュケーション』を観た。そのドラマで初めて私はパンセクシャルのキャラクターを見た。オーラというその登場人物はすごく魅力的だと思った。

そんなこんなで段々と私は自分のセクシュアリティをパンセクシャルだと自認するようになった。一旦認めてしまうと、すべてがすっと腑に落ちたような感覚になった。まだカウンセラー以外に誰にも話したことがない。恥じてはいない。ただ受け入れてもらえるかちょっと不安だ。
この記事を書いたのはただ誰かに話したかったから。自分らしくいたかったからだ。それに今までシングル仲間だった友人が、最近恋愛に一歩踏み出したと聞いて背中を押された。自分のメンタルヘルスの問題もあるし、恋愛はいつか完全に元気になったとき良い人に出会えば…と思っていた。だが急に気づいたのだ。もう大丈夫かも、と。安定した職に就いてから、とか○○してから、とか先延ばしにする理由はいくらでもある。でも、今の不完全な私と一緒に目標を目指してくれる相手を見つけたいと思った。もう依存もせず、自分のためだけの関係でなく、誰かと隣に並んで歩いて行けるのではないかと思った。

ブルックリン99でローザがカミングアウトしたとき、ホルト署長はこう言った。「みんなが自分をさらけ出せば、世界はもっと良い場所になる。だから……ありがとう。」
このシーンを私は涙なしで観ることが出来ない。私がカミングアウトすることでもっとLGBTQや、その他のマイノリティの人々が生きやすい社会になれば良い。何より私は、私らしくいたい。

*² https://twitter.com/mlookslike_?s=20

*⁴


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