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やりたくないことをやってもいい

「毎日毎日僕らは満員の電車に揺られて働いているのだから山でも登らなきゃやってらんないよ」と誰でも思うのではないでしょうか。私も同じ気持ちです。

とはいえ梅雨だし、仕事は忙しくて時間もとれないし、なかなか思うようにはいきません。「なんでこんなことしてんだろ」という気持ちを封殺して働くしかないわけで。ワイシャツを着て革靴を履きサラリーマンに擬態する。客先には「わたくし」なんて一人称で喋っちゃって、普段は「おれ」としか言わないクセに。「わたくし」なんて私には拙僧と同じくらい縁遠い言葉なので。百歩譲って「私」なら私は使う。エッセイの文章を書くときとかには。「わたくし」は仕事以外で一生使う機会がない。朕と同じくらい使わない。

仕事はモチロン好きで選んだものじゃないし、そもそも理系の分野なので文系山男には向かない。ただ必要だから勉強して、できるようになっただけの仕事。会社まで通勤は往復4時間。我慢している実感すらなく、やりたくないことを黙々と文句も言わずに働いている。いや文句は言ってる。今こうして言っている。でも、とにかく、働いている。

「やりたいことをやろう」という概念は社会通念上の正義かのように扱われている。正しいと思う。

でもそうなると、やりたくない仕事をやっている自分は間違っているのだろうか。

「やりたくない仕事をやらされていると思うからダメなんだ楽しい部分を見つけろ気持ちの持ちようだ」みたいな説も聞いた覚えがある。正しいと思う。となると、本のページも開けないほど混雑する箱の中に見知らぬ他人と恋人より近い距離まで押し込まれて汗と口臭に耐えながら運搬される時間を楽しいと思えないのはわたくしの責任かも知れませんね。

残業をして22時。帰り道で考える。

今日も働いた。通勤に往復4時間、定時で仕事を終えても休憩込みで9時間、つまり最低でも一日に13時間は仕事に取られている。週5日で65時間、今日みたいに残業もあるし、一年に換算するとやりたくないことのためにどれだけの時間を……と考えそうになってやめた。暗算できないし。

今週もやりたくないことにたくさんの時間を取られた。明日は久々に予定の無い休みだから「わたくし」なんて一言も発しなくて済むし、やりたいことをやってもいい。コンビニでお酒でも買って帰ろうか。夜更かししてもいい。でもそれじゃ勿体ない。一日だけの休みは何も考えずに過ごすとすぐに終わる。貴重な、やりたいことをやってもいい時間。となると何をしようか。

読む、書く、登る。文系山男なのでまずこの3つが候補にあがる。

何か読むか? 家に積読がたくさんあるし、買おうと思っている本もたくさんある。いや図書館から借りた本もまだある。ああ、返却期限までに読み切らなきゃ。勉強用に買った本もぜんぜん手を付けてない。そう思うと、なんだか、義務感が出て、読みたくない。

何か書くか? 応募しようか迷っている賞もあるし。でも、なんとなくでパソコンに向かっていてアイデアが浮かんだことないし。それに、晴れた休日に家へこもるなんてとんでもない。だから、書きたくない。

となると、登るか。

登るといっても22時を過ぎた今から帰って準備だと、どこに登るか検討する時間が無い。休みが一日だけなので遠出もできない。必然、登り慣れた近場の山が候補にあがる。

塔ノ岳だな。

電車の時間もバスの時間も行動時間も計算しなくてもわかるし、家から登山口まで二時間かからないので、会社に行くよりよっぽど近い。地図は見るまでもなく道がわかるし、準備も靴と服、タオルとレインウェア、あとはコンビニで食料と水分だけ買って出発前にザックに詰めるだけでいい。

計画を立てて翌朝、目覚ましの音で起きたものの、眠い。

夏バテかも知れない。ここのところ夜も暑くて寝苦しい。いい加減、寝室にエアコンの無い暮らしでは死んでしまう。睡眠時間も足りてない。まあ、とにかく、天気は晴れ。梅雨の終わりの晴れ間。登るしかない。重い身体を引き摺って準備をする。暑いから、疲れているからって山に登らない日々が続くと体力まで落ちてしまう。体力が落ちるとまた山に登れなくなる。嫌々でも登らなきゃならない。

嫌々でも? そんな馬鹿な、山は「やりたいこと」のはずだ。「いっそ雨でも降っててくれたら諦めて二度寝するのに」なんて思っていない。天気予報の晴れマークを見て溜息なんて吐いていない。こんなの一時の杞憂で、歩き出せば楽しくなるさ。たぶん。

それにしても、夏の低山は暑い。濃い霧が出て、しかも風がない。昼間とは思えないほど周囲は暗いのに、暑さだけは立派に真夏の昼間だ。どれだけ拭っても汗が止まらない。速乾性の登山用シャツも水に浸したみたいに濡れている。気の滅入る薄暗がりとムシムシとした殺人的な暑さ。寝不足、夏バテ、暑さと湿気の不快感。耳元を飛び回る蚊、蜂、アブ。ひぐらしの鳴く声でさえ腹が立つ。足元をヤマビルがぴょこぴょこ歩いている。私に気付いてうれしそうに近付いて来る。

ああ、もう登りたくない。

読みたくないし書きたくないし登りたくない。何もしたくない。かといって家にこもっていたくもない。何かをしたくないが、何もしないもしたくない。夏の暑い中うごきまわって疲れるのもイヤだし、だらだらして体力が落ちるのもイヤだ。どの方向に進んでも地獄。やりたいことが何も無い。読むのも書くのも登るのも、すべてがイヤになったらいったいどうすればいいのか。文系でも山男でもなくなったらもはや無だ。

とにかく今日はトレーニングだと割り切って、山頂を踏んで帰るために黙々と足を動かす。どろどろの足跡を無感情に踏みつぶして進む。やりたいことだけやろうと思ったって、こんな風に何もかもすべてやりたくなくなかったらどうすればいいんだ? 

やりたいことをやっている人間が正解で、やりたくないことをやらされている人間は間違っている。じゃ、私の人生は間違いか? 「わたくしサラリーマンですので小説なんて書きません」みたいな顔して過ごす毎日は間違いで、読む、書く、登るをしている時間だけが正解か? その正解すらやりたくないなら、おれの人生すべてが間違いなのか?

やりたくないことはやらなくていい。
そうかも知れない。
やりたいことだけやってもいい。
それも正しい。

でも、やりたくないことをやらないでいたら誰か光熱費を払ってくれるのか? 誰が家の掃除をするんだ。あと洗濯とか。洗い物。あ、帰りにスーパーで網戸補修のテープを買わないと。別にやりたくなんかない。でもやらなきゃならないじゃないか。そういうものじゃないのか? 誰だって割り切って、嫌々でもやるんじゃないのか。

山頂では、一瞬だけ霧が晴れた。連なる山々の向こうに富士山が姿を表す。

富士山。

富士山に登ろうと思えば、たとえ辛くても体力をつけなくちゃならない。

暑くてキツい夏の低山でも、登らなくちゃ体力はつかない。

別にやりたくなくなって、体力を付けなければ山には登れない。

泥の中を歩いてきたから、登山靴は泥で汚れている。帰ったら洗わなければならない。誰だって自分の登山靴は自分で洗うしかない。やりたくなくてもやらなくては、次の山に登るために必要だから。

そうか、つまり、そういうことなのか?

雪の溶けた夏の富士山。
富士山を見ていると頭の中に言葉が溢れてくる。

読みたくないと思っても本を読んでいい。
書きたくない気分で書いていい。
登りたくない時期に登ってもいい。

やりたくもない仕事をしてもいい。
明日のために今日働く。
次の山に登るために今は登る。

そういうことなのか? 

やりたくいことだけやらなくてもいいのか。
やりたくないことをやってもいいのか。
やりたくないことをやるのもすべて次に繋げるためのステップだからか?
そこに正解も間違いもないのか?

そういうことか! 
そうだろう、富士山!

「そうだ、その通りだ、よくぞ試練を乗り越えてそのことに気が付いた」などと富士山は答えてくれないが、ずいぶん気持ちは楽になった。

やりたくないことをやってもいいじゃないか。
何も間違ってなんかいない。
どんな行動もすべてが正しいはずだ。

下山すると、空はすっかり晴れていた。
関東の梅雨が明けたらしい。


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東武@ペンシルビバップ
また新しい山に登ります。