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16:ほんとに恐いおばあちゃんの自転車

 おばあちゃんの交通手段は、自転車だった。
 白をベースにピンクや紅色で大振りの花が描かれた、ちんまりとしたママチャリ。
 小柄な体躯に合わせ、サドルは最も低い位置に固定されていた。それが妙にハンドルと前後のタイヤを大きく見せていて、大人用なのに子供用のように感じる。不思議な自転車だった。


 その自転車は、玄関先に停められていた。
 正直に言おう。当時既に八十を越えていたおばあちゃんが、自転車を乗っている事実に驚愕した。
 いま思えば……というより『人生百年時代』を掲げる現代の物差しで考えれば、八十過ぎのおじいちゃんおばあちゃんが自転車を乗り回したって何の不思議もない。近所の爺さんなんて、杖突きながら爆走してるし。自転車乗れんなら杖要らなくね? それと運転する時に、若者のビニール傘よろしくサドルと後輪の間にある隙間に杖挿すの止めてくれ、危ねえから──と言いたいが、実際に言ったことはない。杖を突く老人を目にする度に「いつかあの杖で殴られる」と戦々恐々しているので。

 閑話休題。

 とにもかくにも、今時の年寄り連中は頗る元気である。自転車の進化も止まらない。優秀で有能で機能性もバッチリな、電動アシスト付き自転車も存在する。八十オーバーのおばあちゃんが、自転車をブイブイいわせて爆走してても何ら驚きはない。寧ろ、驚く私の方が「偏見を持つんじゃないよ」と後ろ指を指される側なのだ。

 が、それは『人生百年時代』の話。

 当時はそんなもの掲げられていなかった。
 おまけに、おばあちゃんの家と市街地の間には、結構な距離があった。自転車もアシスト機能のない、自力で漕がねば一ミリだって進まない普通のママチャリである。
 一家に一台どころか、一人一台軽自動車が必要だと考える程度には車社会ならぬ車県なのに、自転車で移動って……おばあちゃん、背中曲がってるけど意外と脚強い?
 そっと腰から下を観察してみる。
 弛んだ肉と皮に覆われた細い脚にしか見えなかった。
 おばあちゃん凄い……この体で、この脚で、自力で漕いでんの。ひええ、凄いなんてもんじゃない。凄い通り越して恐ろしい。何が恐ろしいって、うっかり転んで骨折ったら如何すんの! 大腿骨とか折ったら寝たきり待った無しだよ!? 恐ろしい!!
 孫は恐れ慄いた。

 しかし、恐怖は終わらなかった。

 何を思って“そう言う展開”になったのかは憶えていない。
 けれど、何故か「おばあちゃんの自転車に乗ってみよう」という流れになった。
 何処も弄ったりせず、そのまま乗るぶんには構わんとのことだったので、父と私は試乗してみることに(当時母は自転車に乗れなかったので見学)。
 ここで一つ、奇妙な出来事に遭遇する。

 何故かサドルが左斜めに固定されていた。

 サドルって、真っ直ぐになってるものじゃありませんでしたっけ?
 私は混乱した。おかしい。自転車教室で「サドルは真っ直ぐ固定しましょう」と教わったのに、おばあちゃんの自転車のサドルは左方向に五〜十度ほど傾いている。え、これ乗り辛くない? 大丈夫?
 真っ直ぐに正したかった。けれど、「何処も弄ったりせず」と言われていたので、勝手に直すわけにもいかない。
 私はそのまま跨った。そして再び驚愕する。

 サドルの固定が滅茶苦茶甘かった。

 座って漕ぎ出そうと体重を片側に移動した瞬間、尻の下がグリンッと動いた。思わず「うわっ!!」と叫んで即降りた。
「ちょっ、サドル曲がってる上に止まってないじゃん! 直した方が良いよ! というか直すよ!?」
 私はおばあちゃんに進言した。何一つ間違ったことは言ってないつもりだった。何なら、これを書いている今も何一つ間違っていないと確信している。
 なのに、おばあちゃんは酷く嫌そうな顔をして

「これが乗りやすいけ、直さんでええ」

 と言った。
 嘘でしょ、乗りやすいわけねえだろ……と思ったが、持ち主がそう言うなら仕方がない。
 再びサドルに腰掛け、動かないようにバランスを取りながらペダルに足を乗せる。そんな無理して乗らんでも良いでしょうにと思われるかもしれない。私もそう思う。が、あの時は「絶対に乗ってやろう」という謎の使命感に囚われていたのだ。
 漕ぎ出しは順調だった。
 訂正、漕ぎ出しだけは順調だった。
「なんか変だな……」
 乗り心地もだが、尻と足の裏から伝わる感覚が変だった。妙に柔らかいというか、ふにふにしている感じがする。タイヤが地面を踏みしめ、噛み合っている感じがしない。自分の乗り慣れた自転車じゃないからかしらん。
 ブレーキを掛け──これまた滅茶苦茶効きが悪かった──後輪を確認する。

 タイヤが約半分、潰れていた。

 ぞっとした。
 え、嘘、まじ? え、わた、私の体重が重い、所為? まあ確かに身長はあるけど、体重は常に標準ど真ん中だし……え、でも、重いから潰れ──。
 震えながら自転車を降り、恐る恐る後輪のタイヤに手を伸ばす。心臓の鼓動がいつもより早く打つのを感じながら親指の先でゴムの表面に触れて、そっと押してみた。

 ふに。
 指先が沈む。
 空気が全然足りていない……!!!

 いやいや、これは完全にアウトでしょう! 安全基準満たしてないどころの話じゃないよ!! 嫌な予感がして前輪タイヤも確認したら、こちらもふにっふにだった。
 こんな自転車に乗っているなんて恐すぎる。
 嫌そうな顔をされるのを覚悟で、もう一度進言してみた。
「おばあちゃん、タイヤの空気足りないよ。サドルはあのままでも良いけど、タイヤはちゃんとしておかないと危ないって」
 おばあちゃんは、やっぱり顔を顰めて「いい言うとるけ」と言った。
 結構頑固な人だなと、内心で溜め息を吐いた。結局、(最低限で良いから)自転車の整備をさせる説得は一度も成功せず。諦めざるを得なかった。


 果たして、おばあちゃんが『恐すぎる自転車』を何歳まで乗っていたのか。私には分からない。
 けれど、一つだけ心の底から言えることがある。

 只の一度たりとも交通事故に遭ったり、転んで骨折して寝たきりになったりしなくて本当に良かった。

(続く)

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吾妻燕
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