愛を描くときにキスシーンを置いてしまうつまらなさ

みんなは何を見に映画館に、劇場に、Netflixに行くのだろうか。媒体が何にしろ、時間によって語られる物語に何を見てるのだろう。

強引に括ってしまえば、「感動」するために見てるのだろう。ここでの感動は泣くことではない。もっと心の深い階層に杭を打ち付けられることである。僕はある演劇を見た時、心拍と体温が上がり、最後の暗転の時に鼻血を出した事がある。きっと「感動」とはそういうことだと思う。「泣けた」であるとか、「笑えた」であるとか、心の表層の言葉で形容できる感情には収まらない。「泣いた」ではなく「涙が出ていた」が感動なのだ。僕は「鼻血が出ていた」だった。そうあって欲しい。

岡田斗司夫が「最近の作品はマッサージだ」と表現している。心の表層をもみほぐして気持ちよくしてくれるのが今求められている「感動」なのだ。みんなそんなに泣きたいのか。

愛を描くなら喪失が伴わなければ成り立たない。キスシーンにもたらされるカタルシスは物語を終わらせる。そこで泣かせるところで終わってしまう。きっと「感動」はその先のにあるのに。

そんな事をより多くの人が考えるにはどうしたらいいのだろうね。

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