感覚的な欲求に根拠を見出す理論武装をして戦って、そして逃げるように演劇を作ることにした
お腹が空いた、食べたい。これは感覚的な欲求。
なぜお腹が空いたのか、朝ごはんを食べなかった、昨夜の晩ごはんが腹持ちの悪い献立だった、ここに来るまでに走ってきたから、さっきまで緊張してたから、これが理論武装。
高校から映画や映像の事を考え始めて、大学は映画専攻を選んだ。その過程の中で僕は映画に向いていないという事がよくわかり、アウトプットが演劇に移り変わっていった。これがどれだけ変な事なのか、あるいは普通の事なのか、それを推し量るには、僕はあまりに世界を知らない。
僕は感覚的な欲求が内から内から溢れ出てくる。これをしたい、これはしたく無い、それはもう嫌になる程出てくる。そしてこれは、人と関わっていく上で非常に枷になる。だからいつもその欲求を少しでも正当化しようと、どう理論武装すればいいのかということばかり考えている。
そのことは、映画を作る上であまりにも噛み合わない。いちいちやりたい事に理論武装していく事も疲れるし、次から次に出てくる欲求が形になっていくまでに時間がかかりすぎる。その頃には違う欲求の理論武装を始めていて、順当な組み立てができない。
何より、僕はそんなに映画が好きでは無いのだと最近気がついた。映画専攻と冠された場所に身を置き、それなりにそれなりな作品を観て、全員では無かったけれど、映画に生きる事を乗せている人たちと関わった。そんな人の作品を見るたびに、自分にはこんなふうに映画を作ることはできないなと思っていた。
その事から逃げないで立ち向かう事が、これまでの時間や関わってくれている人たちに対して真摯な姿勢だとも思っていたけれど、どうやらそれも違う。僕にとって演劇を作ることは映画から逃げていることだった。僕が映画を作っても到達できない領域に達している人たちから逃げ、その環境で作る演劇という異質に、作品のあり方を棲み分けして違うものだと捉えることで自分を守っていた。でも、演劇は僕を感じたことのない領域に辿り着かせてくれた。時間と空間を立体的に知覚して、思い描いたものがすぐに立ち現れる演劇は心地が良かった。自分の心地の良い方法で、それでも死ぬような思いをしながら作ることで、思いもよらない領域に到達する事が、本当の真摯な姿勢なのだと今は思ってる。
いつだって何かを始める動機は不純なもの。感覚的な欲求も、僕には美しいとは思えない。色々理論武装をしたけれど、つまるところ、僕が演劇を作ったのは逃げたかったからだ。それでも、逃げた先でいいものに出会えた。もう何を書いているのかわからなくなってきた。きっと文章も向いてない。こうして逃げた先で演劇にまた出会うのだろうな。