ヒカキンさん
僕はYouTuberのHIKAKINをヒカキンと呼ぶ。呼ぶと言っても、友達との会話でヒカキンが出てくる時にヒカキンと呼称する事で、実際にあの人に向かってヒカキンと呼びかけるわけではない。
僕のよく見るYouTuberは皆揃ってヒカキン"さん"と呼ぶ。そりゃそうだ。登録者1000万人を誇り、YouTube黎明期から活動を続け、日本においてYouTuberという居場所を作った人物だ。もしこの先時間が経って、YouTube史が研究されるような事になれば、彼は偉人だろう。でも僕はヒカキンと呼ぶ。
それはきっと、彼の存在を信じていないからだ。意味がわからないくらい良い部屋に住み、僕よりもいいものを食って過ごしているであろう猫を飼っている彼が、僕と同じ世界に生きている人間だと心から信じられていないんだと思う。あくまで画面の向こうの現象なのだ。だから僕はヒカキンと呼ぶし、松本人志と呼ぶし、毛沢東と呼ぶ。そこに不敬があるわけではない。自分の地続きにその人がいるイメージが湧かないのだ。遠すぎて。
最近、自分にとって少し前までそうだった人と会う機会があった。家族ぐるみでその人の作品が大好きで、その人の愛称である動物の名前で僕も母も弟もその人を呼んでいた。便宜上それをヒカキンとしよう。僕は将来の事に思い悩んだ末、ヒカキンの現場に飛び込もうとInstagramで厚かましいDMを送った。あれよあれよ言う間に僕はヒカキンと高円寺のルノワールでアイスコーヒーを飲みながら2時間話をして、ヒカキンの次回作に関わる事になっていた。その間、僕はその人のことをヒカキンと呼ぶことはできず、ヒカキンさん呼んでいた。だって知ってしまったのだ。ヒカキンがちゃんと自分と同じ世界に生きていて、同じコーヒーを飲んで、自分の向かいの席で自分の目を見て話を聞いている。そこに在ることを体感してしまった。もうヒカキンとは呼べない。
この先、ヒカキンさんという呼び方が変わるとすれば、関係が深まった上での呼び方になるだろう。それがまたヒカキンだったとしても以前のヒカキンとは違う。遠くて近い画面の現象に対しての呼称ではなく、その人を呼びかけるための時間のこもった愛称になる。そうなる日が来るのだろうか。来て欲しい。そのために頑張ろうと思う。本当の意味でヒカキンと呼べる日が来るように。