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岡田啓介の遺族? 岡田海軍中佐とは

 二・二六事件において、総理大臣・岡田啓介は殺害されたと思われた。しかし実際は生存しており、岡田と思われて殺害されたのは、義弟・松尾伝蔵だった。
 岡田の生存を知っていたのは、押し入れに匿っていた女中二人の他は、迫水久常・福田耕の二人の秘書官、そして公邸に潜り込んだ麴町憲兵分隊の青柳利之憲兵軍曹たちだけだった。
 26日中に、迫水・福田ライン、青柳ラインの二つで岡田生存を知る者は増えていったが、遺体の違いに蹶起将校たちは気づかなかった。
 27日になると、情勢はいったん落ち着いたと見られ、官邸に弔問客が訪れるようになる。この弔問客を案内した蹶起将校・池田俊彦少尉は、その一人、「岡田海軍中佐」のことを、「首相の甥」と回顧録に記していた。
 だが、岡田には海軍中佐の甥はいなかった。長男・貞外茂は現役海軍軍人だが、このときは日本にいない。また次男・貞寛も、著書の中で「海軍中佐の甥」の存在を否定し、「池田の勘違いであろう」としている。
 しかしもう一人、「遺族側の」として岡田中佐の名を上げる男がいた。他ならぬ、首相官邸襲撃を指揮した栗原安秀中尉が、裁判でその名を上げたのである。
 法務官が岡田と思われていた松尾の遺体を如何に処置したかと問われた栗原は次のように答えた。

「二十六日であつたか二十七日であつたか死体を何時までも其の侭にして置けぬと思ひ福田秘書官を呼んで死体を返すと申しましたら同秘書官は其の侭帰りましたので二十七日電話を遺族側の海軍軍令部の岡田中佐に交渉して翌二十八日午前中に同中佐に引渡ました」
                    『二・二六事件裁判記録』より

 ここで言う「遺族側の海軍軍令部の岡田中佐」とは、池田の言う「首相の甥・岡田海軍中佐」と同一人物だろうと思われる。そしてその人物は、海軍軍令部を代表して蹶起将校との渉外に当たっていた岡田為次中佐だと推察される。確定情報ではないが、現状では蹶起将校と接点のある「岡田中佐」は、岡田為次しか思い当たらない。
 ただし、先述の栗原の証言には、彼自身の記憶違いが見られる。岡田の遺体が公邸から搬出されたのは27日午後である。搬出に当たった秘書官・迫水は回顧録の中で、栗原も搬出に立ち会っていたことを記している。また、このとき迫水と一緒に遺体を搬出し、栗原と話したのは、岡田の副官を務めたこともある平出英夫中佐だった。
 状況を推理すると、まず26日に岡田中佐が蹶起将校たちと交渉にあたる。この際、岡田中佐は公邸への弔問を申し入れる。そして翌日、栗原は許可を出し、公邸にいた池田に「首相の親類(あるいは遺族・甥)が弔問に行く」と伝えた。
 岡田中佐が「首相の親類」と名乗ったとは思えない。そうする意味がないからだ。これは同姓であることから、栗原が勘違いしたのだろう。その勘違いをそのまま池田に伝え、池田は岡田中佐を「首相の甥」と思った。
 池田の回顧によると、岡田中佐は遺体の顔を覆っていた白巾をめくると、慌ててそれを戻した。池田はこのとき、遺体が岡田首相ではないと気づいたのだろうとしている。
 岡田首相は27日午前に、福田秘書官と憲兵たちによって公邸を脱出した。その後公邸に駆け付けた迫水が松尾の遺体の傍につき、岡田の私邸に連絡して棺を公邸に持ってくるよう手配している。
 同じころに、栗原は岡田中佐に電話して遺体の引き取りを依頼した。27日の日暮れ前に棺が到着し、迫水と平出が遺体を納棺した。栗原は部隊を公邸の玄関から裏門にかけて整列させて敬礼して霊柩車を見送った。
 栗原にとってこの搬出は岡田中佐の手配によるもの、という認識だったのだろう。
 栗原の証言は実際と異なるものの、翌日から29日にかけて、栗原は激動の渦中にあった。自決案や奉勅命令など、栗原にとっては、首相の遺体搬出どころの話ではなかった。記憶が曖昧なのも頷ける。
 蹶起部隊にはそれこそ正真正銘の岡田の親類、丹生誠忠中尉がいたが、さすがの栗原も丹生に遺体の処置を任せるような酷なことはしなかった。
 筆者が「岡田中佐」と思しき、岡田為次中佐の名を知ったのは、数年前に放送された二・二六事件に関する海軍の機密資料を紹介したNHKの番組である。今後、件の資料が一般に公開、あるいは書籍化したとき、より細かに岡田中佐の動向、あるいは番組では伝えられなかった情報が明らかになることを期待したい。

主要参考文献

池田俊彦編『二・二六事件裁判記録』
池田俊彦『生きている二・二六』
迫水久常『機関銃下の首相官邸』

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