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短命の千葉グループ ~陸軍士官学校事件の裏で~

千葉グループ結成

 昭和9年11月20日、いわゆる陸軍士官学校事件が起こり、革新派青年将校である村中孝次・磯部浅一らが陸士候補生を使ってクーデターを計画していたとして拘束された。「陸士事件なくして二・二六事件なし」と言われるように、この事件は後々村中・磯部の免官、それを受けての相沢三郎による軍務局長・永田鉄山の殺害(相沢事件)を招いていく。

 村中らが立てたクーデター計画は、しつこく計画を聞いてくる候補生・佐藤勝郎を宥めるための「灰上楼閣だった」と村中は語っている。この佐藤が陸士中隊長であった辻政信にこれを報告し、辻から参謀本部の片倉衷へと話が伝わり、陸軍次官・橋本虎之助に報告され、村中たちの検挙に繋がった。

 実はこの頃、地方青年将校の間では、「秋に東京は起つ」という話が囁かれていた。

 発端は渋川善助である。昭和9年7月、彼は青森の歩兵第5連隊の青年将校・末松太平に、「この秋に東京は起つ」と言ってきたのだ。末松はそれまでになんとか東京に出られないものかと模索し、千葉の歩兵学校に専習に行くことになった同じ連隊の同志には「貴様らが千葉に行っているあいだに、ひょっとすると東京は面白くなるよ」と意味ありげに漏らしている。

 やがて末松自身も、機関砲(後の速射砲)の専習のために10月から千葉歩兵学校に行くことになった。この頃既に、千葉では歩兵砲学生として奈良の歩兵第38連隊から来ていた鶴見重文中尉が若い学生を集めていた。彼もまた、青年将校運動の同志である。

 鶴見もまた、渋川から東京が起つと聞いていたのか、末松から「東京がやるというのは本当かね」と聞かれると「こんどは本気らしいですな」と返事をした。鶴見は末松の1期後輩であったため、以後自分のグループのリーダーに末松を推戴した。ここに短命に終わる千葉グループが形成される。

様子がおかしい

 末松はさっそく東京の同志たちとの連絡を密にしようと、東京通いを始める。しかし通っているうちに、「秋に蹶起する」という空気が東京の同志にはないことに気づく。

 青年将校運動にはよく見られることだが、詳しく確認するということを青年将校は怠る。「いずれ詳しい話があるだろう」と自分からは聞かず、一向に話が始まらないのも「行動は秘密にしなければならないからそうそう口には出せないのだろう」と「察して」しまうのである。

 このため、末松は「なんどか」通って、ようやく鶴見に「どうも変だよ」と洩らすのである。そして鶴見も「私もそう思ってるところですがね」と返す。奈良の鶴見は和歌山の歩兵第61連隊の大岸頼好大尉とも連絡が取りやすい。末松が来る前に大岸大尉と話し合ってきているかと聞くと、鶴見は東京の様子を見てから意見を聞くつもりだと答えた。ここでようやく、末松は大岸も何も知らないことを知った。

 末松ははっきりさせようと、村中に談じ込んだ。「やるのですか、やらないのですか」と聞く末松に、村中は「なんのことだ」と怪訝そうな顔をした。渋川から聞いた「秋に東京は起つ」という話をしても、「それはなんかの間違いだよ」と返す。しかし、鬱憤が募っていた末松が、「東京の連中は、いずれにしても起つ気はもうないんでしょう」と言うと、

 流石に温厚な村中大尉も憤然とした。
「やるときがくればやるさ」
 いつもは青白いほどの顔面を真赤にして、激しい語調で叱りつけるようにいった。

末松太平『私の昭和史』より

 このときの村中の様子は、末松が士官学校事件は辻のでっち上げと考える根拠の一つとなった。

 鶴見ら歩兵砲学生は11月15日には終業式となり、それぞれ原隊に帰る事になる。時間がなかった。だが、村中の様子から少なくともこの秋は、東京に蹶起の意思なしとわかった末松は千葉グループに事情を話した。

 メンバーからは千葉だけでやろうという声も上がった。いちいち東京に依存することはないという声も上がる。彼らにすれば、次はいつ東京近くまで出られるかわからないのだ。これは、五・一五事件を起こした海軍青年将校の危機感と共通する。海軍の場合はいつ艦隊勤務になるかわからないため、陸上にいる間に蹶起をしたかった。実際、海軍側のリーダー格である藤井斉は、血盟団事件直前に空母「加賀」乗り組みとなり、第一次上海事変に出征し、そこで戦死している。

 末松は興奮する同志たちを抑えたが、末松自身、失敗の公算が高くとも千葉グループだけで起つことに「それでもいいか」と考えてしまう。しかし急遽千葉グループだけで起つにしてもどの道、東京の協力は必要であり、諦めるしかなかった。

 末松はこれらのことを「空騒ぎ」と呼んでいるが、青年将校運動全体で見れば、分断に繋がりかねない深刻な事態であった。

 この頃、青年将校たちは、東京の西田税と和歌山の大岸頼好の間で北一輝の『日本改造法案大綱』の扱いをめぐる対立が生じていた。これは、西田と大岸の直接的対立というより、西田を中心とする東京グループと、大岸シンパの対立であった。この対立は深刻で、大岸の元には、「磯部(浅一)君はおれを殺すとまでいってた」という情報も入ってきている。

 末松と鶴見は、大岸に近しい。東京への反発を元に千葉グループが結束すれば、自然と大岸グループとなってしまうのである。実際既に、西田と大岸の対立は、東京と地方の対立という構図に当てはめることが出来た。とはいえ、喧嘩腰な西田に対し、大岸は落ち着いていたため、決裂するほどの対立感情には至っていない。それでも志は同じでも別々の道をたどりかねない、そうした状況に青年将校運動は至っていた。

 いよいよ鶴見ら歩兵砲学生が卒業し、帰隊が近づくと、東京グループは歩兵砲学生たちの憤懣を知ってか知らずか送別会を新宿宝亭で開いた。11月17日のことである(※)。

 ※この送別会について末松太平は著書に「鶴見中尉らの歩兵砲学生が千葉を去る時期が迫ったころ」と書いているため、終業式のある11月15日以前と考えられるが、大蔵栄一は著書に「大演習の慰労の意味もかねて、新宿宝亭で一夕の宴」を11月17日に開くことになったと記し、その参加者は末松の記述と合致し、他の記録でも宝亭の宴会は17日と記しているので、17日だと断定できる。これらは筒井清忠著『陸軍士官学校事件』77~78頁で詳しく考察されている。

 この席上、金沢歩兵第7連隊からきた市川芳男少尉が東京は「何をぐずぐずしているか」と息巻き、呼応して満井佐吉中佐が「東京の若い将校は意気地がない、僕がなん度蹶起する準備をしたか知れないのに、誰もついてこない」と語ったが、これには「口先だけだよ」という声が返ってきた。ちなみに、大蔵の著書にはこの話は書かれていない。

 末松ら千葉グループは黙っていた。座が乱れた頃に末松が満井に近寄り「さっきいったことは本気ですか」と聞くと、満井は本気だと力説し、後日満井を訪ねた末松は、手元に30人ばかりの将校がいる、すぐやりませんかと凄んだが、満井は慌てだして約束があるので外出しなければならないと席を立った。

陸軍士官学校事件

 鶴見たち歩兵砲学生が原隊へ帰り、千葉グループは事実上消滅した。その矢先、11月20日、陸軍士官学校事件が起こった。末松が事件を知ったのは、宮城県の王城寺原での射撃演習を終えて、千葉へ戻る帰路であった。

 事情を聞いた末松は、「秋の蹶起」について聞いたときの村中の様子から、蹶起計画などないことはわかっていたので、候補生に計画を話した村中に後日「どうして、あんなつまらんことを言ったんですか」と聞き、村中は「あまりしつこく聞くんで、おれも変だとは思ったが」と照れ臭そうに苦笑いした。

 とはいえ、実際蹶起があるものと思い、千葉グループを形成していた末松は、あるいは千葉グループの動きが洩れて、辻や片倉に陰謀をでっち上げる動機を作り、自分たちの代わりに村中たちが検挙されたのではないかと思わないでもなかった。具体的に何をするかは東京から指示があるはずと、具体的行動をしてはいなかったが、革新派であることが憲兵隊に周知されている末松・鶴見が人を集めているのは、注目されていてもおかしくはなかった。実際、憲兵隊は歩兵学校生徒たちの動きを監視していたが、士官学校事件に合わせた警戒をしている様子はない。末松自身、外に洩らした可能性のある将校を二三上げている。それらは辻、片倉と個人的繋がりのある将校であったが、末松も深く疑っているわけでもなかった。

 結局、千葉グループの件で末松は何か咎めを受けることはなかった。このことを西田税は、冗談で次のように笑った。

「君は奇妙な男だよ。十月事件のときもそうだったが、こんども事件の元兇でありながら、なんともないんだからな。君は無風帯にいるんだな」

末松太平『私の昭和史』より


「秋の蹶起」はなんだったのか

 年が明けて、末松は青森に戻っていた。そこへ、習志野の戦車第2連隊にいた栗原安秀中尉が、演習のために北海道へ渡る途中、青森を訪ねて来た。

 人に会えば「やらねばいかん」と語る栗原だが、同志たちはそれを軽く捉えていたのか本気にとらなかった。青森の青年将校たちは栗原を囲んで一席設けたが、そこでも「やらねばいかん」が飛び出した。そこで末松が千葉での「空騒ぎ」の後ということもあって、冷やかし半分に「やらねばいかん、やらねばいかんというが、東京は何もやりはしないではないか」と、「空騒ぎ」の件に触れた。

 ところが栗原は、千葉にそのような一団がいたことを全く知らなかった。習志野と千葉では、東京に比べればはるかに近所であったにも関わらずである。逆に栗原が「どうして教えてくれなかったんですか」と言う始末である。

 思い返せば、千葉にいて東京通いをしている間、末松は栗原に会っていなかった。栗原が習志野にいたというのも大きいが、一番の急進派である栗原が、蹶起計画が進んでいるときに何も知らないはずがない。まして村中が佐藤候補生に語った計画では、栗原は戦車十台を率いて参加する予定だったのだ。末松は栗原の存在で、士官学校事件がでっち上げだと確信するのであった。

 末松は触れていないが、これは同時に、「秋の蹶起」も存在しなかったことを証明している。そもそも発端である渋川善助は、末松が千葉にいたときどこにいたかと言えば、警察に拘留されていたのである。青山の郵便局襲撃事件で犯人が拳銃を渋川から貰ったと証言したためだった。このため、末松は渋川に話を聞けなかった。

 渋川はなぜ「秋に東京が起つ」と言ったのか、はっきりしたことはわからない。この後も、末松と渋川はこの件について話した様子はなく、末松も特に回顧はしていない。当時、渋川は西田と大岸の対立に心を痛め、両者を取りなそうと東奔西走していた。一方ではこの対立に苛立ち、その感情を持て余してもいた。

 まったくの推測になるが、あるいは村中から何かを聞いて、渋川が先走った、ということもあり得るのではないだろうか。というのも、村中が候補生・佐藤勝郎に「灰上楼閣」な行動計画を語ったのも、佐藤が「青年将校に蹶起の意思なし頼むに足らず」「あるならば実行計画を示されたし」と迫ったためだが、末松に「もう起つ気はないんでしょう」と言われた時も、村中は顔色を変えて「やるときはやる」と答えている。これらから、村中は「やる気がないのだ」と言われれば、「やる」と答える人だとわかる。それは活動家としては当然のことだが、状況の類似を考えると、同じような事態が起きれば似たような返事をする可能性は高い。

 現状に苛立った渋川が村中に、蹶起の意思のあるなしを聞き、感情的になった村中が「ある」と返し、それを本気と受け取った渋川が先走って、「この秋に東京は起つ」と触れ回った。ということも十分に考え得る。

 とはいえ、「秋の蹶起」については末松しか触れておらず、全ては謎のままである。



主要参考文献

筒井清忠『陸軍士官学校事件 二・二六事件の原点』中央公論新社 2016年末松太平『私の昭和史』(みすず書房 1963年) → 中央公論新社 2023年
大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』読売新聞社 1971年
松本清張・清水康栄編『二・二六事件=研究資料』Ⅰ~Ⅲ 文藝春秋 1976~1993年 

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