好きって言ってみた(大好き)2024年11月12日
こんにちは。みんながここに集まれば、学校は特別になるってね。私にはそのみんながいないよ〜ぴえんぴえん。みんな、と呼べる人は今までに沢山いたし、離れ離れになっても縁が切れないのはほんとに、嬉しいし幸せなことだと思います。そして大学でも出来たらいいな、なんて考えたりしてます。
でもやっぱり時間の壁は乗り越えられないなと感じます。高校より中学、中学より小学生の時からの方が会って過ぎる時間が段違いです。小学生の頃からの子は放課後遊び足りないあの感覚を思い出させてくれるし、中学の子達はだべっていたあの頃と何も変わらないどころかあのころの倍速スピードで話している気がします。高校からの友達は相変わらず深い話をぽつりぽつりと話してくれますし、その言語化能力に日々感銘を受けています。
でも、連絡を取る頻度はその逆です。小学より中学、中学より高校の子の方が連絡をとっています。不思議ですね。なんだか信頼すると連絡を取らなくなるんですかね。それとも、、、?
・おじいちゃん
今日は会ったこともない写真でしか見た事ないおじいちゃんの命日です。母と電話していたら急に「今日は何の日でしょう!」と言われるまで分かりませんでした。危うく「ポッキーの日の次の日」と答えるところでした。あぶね。「死んだ人が本当に居なくなるのはそれが忘れられた時だ。」という言葉の現実味が凄いです。おじいちゃんが亡くなってから20年、お母さんたちは、毎年、どころか毎日、どこかにおじいちゃんがいるように接します。お盆になったらおじいちゃんがちゃんと帰って来れるようにと花火を買い、送り盆もちゃんと帰れるようにと花火をします。それでも日々どこかでおじいちゃんが見守ってると母は信じてるようですし、私もそれを引き継いでいます。「こんなことしたらおじいちゃんに怒られちゃうわ」「これおじいちゃんやりたかったろうにね。」と。
また、生前の話もたまにされます。「あだち充のタッチの1巻を読んで、『これは面白い話だ』とその日のうちに全巻買ってきた。」「新しい物好きですぐ色々買ってきた」「土日は知らん間にどっか行ってた」「形からはいるタイプでこれをやりたいと思えばまずは道具を1式揃えていた」などなど。なんだか私と似ている気がするのは気のせいでしょうか、?ずっと、おじいちゃん私たち似てない?って思ってます。
とまぁこんな感じで、おじいちゃんは生きてるんです。私たちの中で。まじであったことないけど、それでも生きてるんです。それは、親族の誰が亡くなっても、変わらないと思っています。
私は、これを読んで欲しい人がいます、でもそれはエゴでしかないです。どうしよう。いつか、話せたら、届いたらいいなとおもいます。
拝啓
敬具