【短編小説】君の毎日のキャンバスに僕の味噌汁を
口いっぱいに味噌汁の具をもぐもぐさせながら、目の前の君は「不思議だよねえ」と、真剣な顔でつぶやく。
君は、いつもそうだ。
2月25日。
君の誕生日は、3日後。
僕がプロポーズをしようなんて、
君は、少しも気付いていない。
他の女の子なら「早くプロポーズしてほしい」と気付かせるために、そんな話題を出すのかもしれない。でも君の場合、何の意図もそこにはない。
本当に、夫になる人がポタージュやミネストローネを飲みたいかもしれない、と勝手に想像を膨らませている。こうして僕の告白の言葉の選択肢の一つが消えることも、お構いなしだ。
* * *
君は、いつも子供のように純粋な人だった。
出会った頃、彼女はまだ無名の油絵画家だった。当時小さな定食屋でバイトを始めた僕は、近くで偶然個展をやっているというので、物珍しさに休憩時間に少し寄ってみたのだ。
「胡蝶のあ 作品展」
と、書かれた看板が立て掛けてある。
中に入ると、白い部屋に大小様々な油絵が飾ってあった。
僕はすぐに「胡蝶のあ」の油絵の虜になった。彼女は、実に動物を色彩豊かに描く。ただ、巷でよく見る七色のタッチではなく、その世界観に合った色調が使われるのが特徴だ。
目の前に飛び込む黄色のゾウや濃紺色のサルを眺めながら、
と、僕は胸がわくわくでいっぱいになった。
特にその中の1枚 ーピンクと紫で描かれた子ぶたの大きな絵ー に惹かれた僕は、なけなしのお金を握り締めて、その絵を買った。
当時の僕にとって「1万円」という金額は決して安くなかったけれど、どんな贅沢品よりも価値のあるものに感じた。
「胡蝶のあ」という人物が、実は僕の働く定食屋の常連さんだったと知ったのは、それから数日後の話だ。
黒髪のボブを揺らし、少し個性的なワンピースを着た女性が、今日もお店に入ってくる。小柄なのに、一番お手頃な豚炒め定食を大盛りご飯でぺろりとたいらげる。男性客が多いお店だから、彼女の事はよく覚えていた。
「あの、誰か私の絵、買ってくれたんですか…?」
彼女は壁に飾られた子ぶたの絵を指差しながら、笑みが溢れる顔でそっと僕に尋ねる。
彼女が、胡蝶のあ。
僕は高鳴る胸を抑えきれなくて、大好きです、と口走ってしまった。まるで彼女自身に告白してるみたいだと気付き、僕は顔が真っ赤になる。
「買ってくれて、ありがとうございます。」
そう僕に微笑む彼女は、どんな色鮮やかな絵よりも煌めいて見えた。
* * *
あれから、約7年の月日が過ぎた。
当時無名だった「胡蝶のあ」は、地道に個展活動を続けていった結果、世間でそれなりに名前が知られるようになっていた。1万円程度だった彼女の絵も、今では数十万円の値段が付くこともあった。
一方の僕は、高校卒業後から料理人の夢を追っかけていたけど、この春からは一つ星の日本料理のお店で働くことが決まっていた。
2月25日、僕はいつもの定食屋に彼女を誘った。
変わっていく環境に不安にもなるけれど、彼女とこのお店は、変わらずずっと僕のそばにいてくれた。
ここで気持ちを伝えよう。
ロマンチックじゃないけど、
僕ららしくていいじゃないか。
僕は彼女を、奥の個室に連れて行った。彼女がちょこんと座り込むのを確認すると、僕は厨房へ向かい、あるものを持って戻って来た。
具がたっぷり入った、お味噌汁。
小さく切った人参、大根、椎茸、えのき、ごぼう、こんにゃく、豆腐、油揚げ、ちょっと贅沢に豚こま肉も入っている。上には、刻んだ緑色の細ねぎと山椒をぱらぱらと散らしている。
いつもよりずっと豪華で、愛のこもった、
君のためだけに僕が作るお味噌汁。
「胡蝶のあ」が描きたいと思う、お味噌汁を。
僕は、君のことが大好きだ。
でも同じくらい、「胡蝶のあ」の描く絵が大好きだ。
僕は、君のような秀でた才能はない。
君の眼には、世界がどれほど鮮やかに映っているのか。見てみたいと、何度も願った。
でも、それは一生叶わない。
僕が君に出来るのは、料理を作ることだけだ。
君がキャンバスについ描きたくなってしまう、そんな素敵なお味噌汁を、毎日食べて欲しい。
「お味噌汁って、無限大なんだよ。白味噌や赤味噌を使えば、全く味が変わる。豆乳とごまでポタージュ風、トマトを入れてミネストローネ風にも出来る。絶対に、君を飽きさせない。それに...」
「もう、分かったから。」
照れ隠しで口早になってしまう僕を見ながら、君は幸せそうに笑っていた。
* * *
「まだまだここに飾れるな、お味噌汁沢山作るぞ!」
僕は、後ろで眺める彼女にそう言いながら、少し小さい木目調の額縁を、子ぶたの絵の隣にそっと飾った。
額縁の中には、あの日のお味噌汁の絵。
色彩豊かに描かれた、世界でひとつのお味噌汁。
「私、そんなにお味噌汁ばかり描かないよ。」
君は可笑しそうに、ふふっと笑う。
君のキャンバスに似合う、お味噌汁を作ろう。
これから、ずっと。
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