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一枚だけでいいんだ。魂が震える画を持とう。自分だけがわかる画を……。

画はね________わたしにとって宗教と同じような存在。むしろわたしは信仰そのものかもしれないと思っています。
自分の魂と神様との対話が信仰のあり様であるとするのなら
自分の魂と「画と作者」との対話もこれすなわち信仰の姿勢に通じるでしょう。いや、寧ろそれは同質の存在。

わたしは、絵画を鑑賞するとき______原則、一人で行きます。ツレがいるときは、中に入ると別行動になります。これが一番良い。過去44年間、経験、勘、度胸から導き出した答え。一人なら喧嘩にならないのです。だって云いたくなるじゃん、ツレがいるとさ、いろいろと。折角画を観に来ているのであって、シロウトのかぶれた講釈なんか聞きたくないじゃん。誰だって。
 好きだと思える画もみんなそれぞれ違う……
「僕は、彼のこの画が好きだなぁ~だって、ここがさ…あぁでこうで…」
「そうかしら、わたしはあの画の方が好きだわ♬だって……」
「だから、きみは騙されるんだよ、悪い〇に」
「チョット、なによその言い方 ! ! あなただって、そいう処が不興をかう…」

にわか修羅場の出来上がり。
大体ね、芸術好き、美術好きはみなさん感性が立っておられるから、基本姿勢としては「折れる」という前提は無いのであるよ。また折れる必要もないしさ。「なんでわからないかなぁ」という姿勢ありきなのです(笑)
ここの始末を最初につけられる人たちは長続きするだろうねw 


さて、最後に一枚の画を紹介して結びに代えさせていただきます。

不染鉄 夢殿 制作年不明 昭和42年前後か……

わたしがこの画をはじめて見たときの感想
「この画が、信仰の対象となることはむしろ当然のことと思えるのである」

速水御舟の「鍋島の皿と柘榴」と同じことが言える。どの角度から見ればこのような画になるのか。
御舟が「一瞬」のまばたきと命の紡ぎを画として切り取ったとするのであれば、不染鉄は時間のひずみ、歪みを画としたのかもしれない。
奥行きに観る遠近感に留まらず、高低を支配した鉄の筆は、観る者たちの足元から足場板を外してしまっており、ぐらつかせる。
 それでも心穏やかにおられるのは、扉障子にさす仄かな赤い明かり一つ。
眺め入ると「是非もない」と聞こえてくるのはわたしだけかもしれない。

タイトルサムネイル
アーニョロブロンズィーノ キリストの磔 1545年
マニエリスム様式からバロック様式への過渡期のイタリアの画家
「愛の寓意」など代表作は多い。


世一

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