閲覧注意・スキ押すべからず! さて、吾名は十字架と結着をみているが、して君の名は ?
閲覧注意・スキ押すべからず! さて、吾名は十字架と結着をみているが、して君の名は ?
ちょっと書いてみようか。
有り難い。
有り難い。そう感じることができる感性ほど尊いものは無かろうよ。わたしはそう感じている。自信をもって書かせてもらおう。
ただし、これを赤の他人にお仕着せするつもりは無い。が、なるほどと思える人間とは仲良くできるだろう。自画自賛に聞こえるやもしれぬし、上からの物言いに思えるかもしれぬがそうではない。そこは感性の働かせ方、動かし方の違いに過ぎぬ。こんなものはどこまで行っても許容のふり幅の話しである。
考えてみたまえ。今をそしてこれから先の行く末を。残念だが、わたしなどは気色の悪い時代であり、塩梅の悪い社会しか想像できぬのであるよ(笑)
ブログを眺めりゃ亭主の悪口、女房の悪口、会社の上司や部下の悪口。客の悪口、取引先の悪口、店やサービス機関の悪口だ。それもみんな匿名免罪符のもとである。申し訳ないが、わたしの目にするものが悪いのか、実名で語るブログなどお目にかかったことはない。どれほど病んでいるのだろうか。
挙句の果てがコザッパリとした匿名免罪符の元、晩節に至りてこれを振り返り、声高にこれ見よがしに書き連ねるとあった日には、素人衆にとっては耳ざわり良いものかもしれぬが、"十字架"を下ろしたところの姿は、わたしのような裏表、酸いも辛いも知ったものにとっては、けして誇らしいものと映ることはない。
わたしなどは"クサル"ということがない。それはそうだ。常に原罪と十字架を背負い清濁併せ飲むところに身を置いている以上、なにをクサル必要があろうか。わたしがもしも教育者であったとするのなら言うだろう。
「人間の名前というものは十字架である。君が"人間の世界"に背を向けない生き方を望むのであれば、十字架をけしておろすべきではない」と。
十字架を背負っていない人間はいない。
極論、そこと向き合う姿勢でしかない。
そんなものを声高に「あっしの場合はこうでござい」などとやる必要はない。自分と自分の大切な人が理解できていればそれで事足りる。
わたしね、あまりアイロニー(ここでは皮肉骨髄と読んでほしい)をこねくり回すのスキじゃないのよ。特に個人を特定して皮肉めいたことを云うのは性に合わぬのである。社会に対しては使う手法ではあるのだが。
従って常に"わたし"中心に書き進めるのだけどね。
さて、以下はアイロニーではない。そのものズバリの疑問である。
仁という言葉を愛する者が
"みじめ"という言葉を選択できる世界観。
はて、この"御仁"にとっての "仁" とは何ぞや ?
暫く楽しめそうな謎掛けである。
わたしの知る限り、仁という言葉の持つ意味において"みじめ"が該当することはないのだが。仁とは一つの系統の人間を形成する上での確信的要素であるはずなのだが、"仁とみじめ"に一筋縄ではゆかぬ"人間"が垣間見られるのである。従い、愛すべきところと読むことも出来るのだが、素朴な疑問がムクムクと首を擡げるのでありんした。
さて、こちらのご仁~"十字架"を背負ったうえで同じ言葉を選択できたとすれば聞く耳は持てるのだが~ 如何だろうか。
尚、本節は誹謗でも中傷でもない。作品を熟読させて頂いた上で直面した疑問である。
___________だから、わたしは十字架を下ろさないのだよ。
調子に乗らぬため。いい気にならぬため。
謙虚でいるため。逃げ出さぬために。
学術的、学際的な蘊蓄からはその人間の十字架を感じ取ることはできなかろうよ。
しかし、一筋縄ではゆかぬ"お里"は一枚捲りゃ顔を覗かせるのである。
わたしが考えるところ
文学であり藝術は"十字架"なのだろうなぁ。
中でも純文学はその十字架と向き合う姿を赤裸々にしたものなのかもしれぬ。したがって、十字架とは背負うべきものではあっても、背を向けるべきものではないのかもしれぬと考えるのだが。
だから書いてきたでしょう。
わたしはわたしの持っているものしか書けないと。
ふっ~ 観念的なのだが(笑) 、クリエイティビティーに発達をみたご仁になら伝わるだろうか。祈りたいところではある。
まぁ、一つ前の節については文学を学んでいないものの戯言と片付けて頂ければ有難い。単に主観が先走った成れの果てである。
了
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