なぜ私はレゴラスが好きなのか
※この記事は2016年のTolkien Writing Day の企画に参加した時の再録です。
お題が「何故私は○○が好きなのか」というシンプルかつドンピシャなものだったので、考察と言うより、原作の引用を精いっぱい使って真面目っぽい文章に見せかけた、ただの心の叫びです。
それでは参りましょう。
「なぜ私はレゴラスが好きなのか」
◆ビジュアルの魅力
いきなり身も蓋も無い話からいきますが、やっぱり何と言っても顔です。
いや、髪も好きだし、立ち居振る舞いも好きだが、要するに見た目。
So cool, so beautiful.
そもそも『指輪物語』への入り口は、映画「ロード・オブ・ザ・リング」でした。当然ながらキャラクターのイメージは最初から全て映画準拠で入っています。レゴラスに関してはもう当時のオーランド・ブルームが演じたあのビジュアルが完璧すぎて、ほいほい釣られたというのが正直な本音。
もともとゲームやアニメに登場するエルフのキャラクターや、「弓」という遠距離武器に魅力を感じていたので、「エルフの王子で弓の名手で、めちゃくちゃ美形のハリウッド俳優が演じてて、金髪で編み込みのロン毛」というだけでフルコースだったわけです。
(トールキンが作ったエルフのイメージが他のファンタジー作品に大きな影響を与えたことを考慮すると、むしろ「派生先」のものに慣れ親しんでいて、元祖に立ち戻ったことになる訳ですが…)
あれよあれよと原作に手を伸ばし、レゴラスの容姿に関する言及にはすかさず付箋を貼るしょうもない子供でした。
「エルフらしいその美しい顔」(『旅の仲間』下1、p98)とか
「風のない夜の若木のよう」(『二つの塔』上1、p41)とか
「人間の標準の及ばぬほど美しい顔」(『王の帰還』上、p313)とかね!
挙げればきりが無いんです。
とはいえ、彼の「王子様然とした」容姿に、そのまま(シンデレラや白雪姫に登場するような)お伽噺の「王子様」を求めて好きになったのかと言うと、当時から少し違っていました。
最初はその理由がわからなかったのですが、これは原作を読み終わってからの話になります。(後述)
◆原作でのKYっぷり
映画から原作に手を伸ばし、恐らく多くの人がびっくりしたであろうポイント。
キャラ(性格)が大きく違う。(例:「太陽を見つけに行ってきますからね!」atカラズラス)
とはいえ映画ビジュアルで完全に補正がかかっているので、そこも全て魅力的に見えました。
原作のレゴラスは、上記の例にもれず、ロスロリアンでも観光気分で浮かれているし、マイペースだし、どこか掴みどころが無くて、ふわふわとしていて、自由です。
あの過酷な旅の道中、基本的にフロドやホビットに感情移入しながら読んでいた私は、終始難しい顔をしているガンダルフやアラゴルンよりも、レゴラスのこういう余裕に、どこかほっとする部分があったのだと思います。
とりわけ注目したいのが、ボロミアの死に際してのシーン。ホビットも攫われ、フロドの行方もわからないという絶望的な状況で「わたしのしたことは何もかも裏目に出てしまった。次に何をするべきだろうか?」とアラゴルンは相当参ってるのですが、次に来るのがこの台詞。
「まず死者を葬らなくては。」と、レゴラスが言いました。「このけがらわしいオークどもの間に、腐肉のようにかれ(※ボロミア)をうっちゃって行くわけにはいきません。」(『二つの塔』上1、p15)
「それではしなければならないことをまずしましょう」(同上,p16)
いや、これすごくない?
ひとまず出来ることから手をつけて、そのうちに考えがまとまることってあるじゃないですか。あとは、しょうもない提案でもいいから、とにかく何か出してもらって、そこから「いや、それはちょっと~~だから」「それも良いがだったら~」ってこちらの考えも進んだり。
まあ、原作レゴラスがどこまで意図してるかは謎だけど、何でもいいから提案を出すところ、感情への寄り添い方としてすごく好ましいし、頼もしい。たまに救われもする。
◆ギムリとの友情
レゴラスを語る上で欠かせないのがギムリとの友情。
仲の悪い種族同士なのに、類まれな友情を結ぶ2人の関係性は、『指輪物語』にいくつも登場する「友情」の中でも最も魅力的で心に響くものの一つだと思っています。凸凹コンビ感もまた素敵なんですよ。
原作での2人でミナス・ティリスに入っていくと気の描写なんてね、周りの人の好奇心はそのまま読者の代弁です。
エルフとドワーフは一緒にミナス・ティリスにはいって行きました。二人が通るのを見た人々 は、このような組み合わせを見て好奇心を抱きました。なぜならレゴラスは人間の標準の及ばぬ ほど美しい顔をしていましたし、また朝の光の中を歩きながら澄んだ声でエルフ族の歌を歌って いましたが、一方ギムリのほうは、顎鬚をしごき、あたりを睨めまわしながら、その隣りをのっ しのっしと歩いていたのですから。(『王の帰還』上、p313)
時間は少し戻って、2人がここまで仲良く出歩くようになるのは、ロスロリアンでのシーン以降ですが、
そしてかれはこの土地の中をあちこち出歩くのに、度々ギムリを連れ出し、その変わり方はみんなを驚かせずにはいられませんでした。(『旅の仲間』下2、p97)
とあるように、この行動の主語はレゴラスなんです。
これは「レゴラスの方に先に心境の変化が合って、主体的にギムリに働きかけた」とも読み取れないでしょうか。勿論、ギムリの方も律義に付き合ってあげるあたり、だいぶ穏やかになってるとは思います。(ロスロリアンの土地の性質か、奥方様の魔力かはわかりませんが)
それでも、基本的に不変の存在であるエルフが「変わる」ということ、これがとても特別で稀有なものに思えました。
「その種族にしては変わっている」
こういった要素はやはりキャラクターを立たせます。
ましてや、それまで原作を通して描かれてきたエルフと言えば、不老不死で、不変で、自分たちの世界に閉じこもっていて、中つ国の危機に際してもさっさと船で海の向こうに逃げてしまうような、どこかお高くとまった種族。
その代表として旅に参加したレゴラスが、今まで嫌い合っていた種族に歩み寄ることができる。大げさな言い方ですが、私はここに『指輪物語』における善の勢力の本質を見たような気がしたのです。
以前読んだエッセイで次のような一文がありました。
「だからこそこの物語では、唯一であることは悪なのだ。誰にでも絶対に仲間がおり、必ず友か伴侶が寄り添う。これだけ多くの存在が登場しながら、一人で行動するのを好む者はいない。」(宇月原晴明「<主ザ・ロード>という呪い」『ユリイカ 総特集『指輪物語』の世界 ファンタジーの可能性』青土社、2002年、p84)
サウロン、そして《一つの指輪》――この強大な”one“に立ち向かうためには、バラバラだった自由の民が団結するしかありません。
誰かの独裁や強制によってではなく、あくまで自主的に、互いに手を取り合うこと。”Rule them all” とは違うんだぞ!という気概を見せつけないといかん訳です。
メリーとピピンがエントたちを説得し、ローハン軍がゴンドールを支援するため遠征し、サムが「指輪の重荷は背負えなくても」とフロドを背負うあのシーンに見たカタルシスを、レゴラスとギムリの中にも見たのだと思います。
◆第4紀を知る者――最後の<旅の仲間>として
「ホビット庄歴1541年 この年の三月一日、エレスサール王遂に崩御される。…(中略)…この後、レゴラス、イシリアンで灰色の船を建造し、アンドゥインを下って、海を渡った。かれとともにドワーフのギムリも行ったという。この船が去った時、中つ国では、指輪の仲間は跡を絶った。」(『追補編』,p169)
原作も読み終わり、「さあ、帰ったよ」の何とも言えぬ喪失感と愛おしさに耐えきれず、手を伸ばした追補編で、さらなる切なさに見舞われたのがこの下りでした。
追補編には、指輪戦争の「その後」の仲間たちの経緯が年表や物語形式(一部抜粋)でつづられています。
レゴラスやギムリは、それぞれゴンドールの近くに領地を持ち、アラゴルンを始め人間の世界の復興に貢献します。
ところがエルフと違い、人やホビットといった定命の者には必ず寿命があります。フロドを追って西へ旅立ったサム、ゴンドールで短い余生を終えたメリーとピピン、そして天寿を全うしていったアラゴルン(エレスサール王)
迫る寿命はドワーフにも同じことだったはず。この調子で親友まで死んじゃったら、レゴラス大丈夫??悲しみが深すぎると死ぬ設定のエルフだけど大丈夫?? と不安に思いつつページをめくる私。ちなみにこれより前に記載されている「アラゴルンとアルウェンの物語」で、エレスサールを看取ったアルウェンは「私を運ぶ船はもうありません」と言って悲しみに暮れたまま死を受け入れる訳ですが、一方で同じく中つ国にずるずる残っちゃってとっくに船が無いであろうレゴラスが出した回答。
船が無いなら作ればいいじゃない。
親友? 連れてけばいいじゃない。
はい。
なんというかね。一周回ってすがすがしいですよ。やっぱこいつはカラズラスで太陽探しに行ったあのエルフのままだわ!と笑いすらこみあげました。
同時に、「あんなに海に漕がれていたのに、アラゴルンが死ぬまでは120年も待って、その後ギムリのことは根性で連れていくんだなw」という追跡トリオの何とも言えない子の絆も噛みしめて、とても人間臭いと思ったりもしました。
そう、第4紀まで来るとレゴラスはエルフなのにとても「人間臭い」
トールキン教授には
「レゴラスは九人の徒歩(かち)の者の中でおそらくもっとも勲が少なかった」(『終わらざりし物語』下、p174)
なんて言われちゃってるレゴラスですが、私はレゴラスが《旅の仲間》の一員であった最大の意義とは「彼がエルフであったこと」だと思っています。
ガンダルフが第3紀の終わりに西へ旅立ってしまっていますし、ギムリも西の地に渡ったところで寿命が永遠になるわけではないのでいずれ死んでしまいます。
第4紀と言う新しい時代に、かつての仲間が、友が、どうやって生きて、何に笑って何を育んで、そしていかにして死んでいったのか――。奇しくも『追補編』には死に際してアラゴルンがアルウェンにこんなことを言っています。
「われらが共に暮らした日々の思い出を西方に運び去れば、その思い出はかの地で色褪せることは無かろう」(『追補編』、p85)
アルウェンはこれを拒否して人間の運命(=死)を受け入れているわけですが、じゃあそのアルウェンが死んでしまう以上、思い出を思い出のまま保持してられる人って誰よ?
レゴラスじゃね?
カメラもビデオも、それに準ずる魔法技術も(おそらく)無い中つ国で、友の人生をずっと見続けて、ずっと自分の記憶として覚え続けていられる《旅の仲間》。
これってすごく素敵で、重要な事じゃないでしょうか?
変化を学び、成長し、ドワーフと友情を結び、誰よりもエルフらしくないエルフになってしまったように思えたレゴラスが、最後の最後でエルフであるがゆえにできることがある。
これに気付いた時、本当の意味でこのキャラクターが大好きになったのでした。
◆おわりに
さて、冒頭の容姿に関する項目で、「どうやらレゴラスを「王子様」として好きになったのではなさそうだ」と書きました。
難しいのですが、中学生だった当時から「いわゆる『私の王子様♡』っていうテンションじゃ無いな…なんだろうな、この感覚…」と思っていたんですが、そのヒントは「私の」という所有格にありました。
追補編を読むとわかることですが、他のキャラクターたちはホビッツも人間組もそれぞれ結婚して家庭を持って身を落ちつけていく中、レゴラスとギムリにはその気配が無いんですね。
それよりも「中つ国にまだ見るべき美しいもの」を求めてあちこち旅をして、いつまでも自由です。
結婚や恋人の存在を束縛と言うつもりはありませんが、やっぱりこう好きなキャラクターが作品内で特定の誰かとくっついちゃうと、疑似失恋のような淋しい気持ちになるのは当時の自分にもあったようで、そう言う意味で「誰のものにもならない」状態のレゴラスってすごく新鮮だったのだと思います。(ギムリもそうなんですが、彼の心には奥方様への尊敬と憧憬があまりに大切な場所に座っている気がします)
だから別に「私の」にしたいとか思わない。
なぜなら最後の選択も含めてトコトン自由な有り様にこそ、最大の魅力を感じたから。
空を飛ぶ鳥を見て「素敵だなあ」と思うような感覚ですよ。
別に捕まえたいとか、自分も飛びたいとかじゃなく、ひたすら清々しい気持ちになって元気を貰うような。
なんですかね・・・空気清涼剤? 旅行先の素敵な風景?
今更言うまでもありませんが「レゴラス(Legolas)」の名前の意味は“緑葉”です。
何とも瑞々しくて若々しいそんな響きに、「中つ国にまだ見るべき美しいもの」ならぬ「『指輪物語』という物語にまだ見るべき美しいもの」の一つを見て、たまらぬほど活力を貰うのです。
※引用文献のページ数は文庫版に準ずる。
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