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人をダメにする恥の概念【全文無料】

※有料記事にしていますが、内容に関してはほぼ全文無料です。

~~以下、本文~~

人間には、恥ずかしいという感情が備わっている。
この記事を読んでいる中で、恥ずかしいと感じたことのない人は、まずいないだろう。

学校という場を切り取って、恥ずかしい出来事の例をあげてみよう。
先生をお母さんと呼んでしまう。
話している最中に噛んでしまう。
発表の場で固まってしまう。
ひとりで歌の発表をさせられて足が震えてしまう。

人によっては、思い出して顔が熱くなっていることだろう。僕も書いてて心拍数が上がっている。
たいていの人は、こういう恥ずかしい経験を、多かれ少なかれしているはずだ。

しかし、このような共通の経験をしているにもかかわらず、恥に対する過敏さには個人差があるように思う。
些細なことで恥ずかしくなってフリーズしてしまう人もいれば、適切に恥を感じる人もいるし、面の皮が何層にも重なったとしか思えない人間(悪く言うと恥知らず)もいる。

僕も、些細なことで恥ずかしくなったり動悸がしたりする側の人間だ。
さらに言えば、他人の恥ずかしいところを見ると自分まで恥ずかしくなる時もある。
これは共感性羞恥という現象らしい。
SNSでこのワードが共感を呼んでいたのを見た時は、自分だけではなかったのかと安心した記憶がある。

話を戻すが、僕のような人間にとって、恥という感情はしばしば足を引っ張ってくる厄介な存在だ。
恥ずかしいという感情に振り回され、損を被ったり、仲良くなれたかもしれない人に距離を置かれてしまった経験も少なくない。
人間関係の構築に必要な自己開示にさえ、強い抵抗を感じるからだ。

なんでこんな厄介な感情が人間に備わっているんだと、損をするたび考えてきた。

僕は精神科医でもなければ、心理学に人一倍詳しいわけでもない。
何冊か本を読んだことはあるが、分野に関しては素人であり、はっきり言えば門外漢だ。
だが、恥ずかしいという感情のおかげで不利益を被ったり、他人に不快感を与えてしまった経験はそれなりにある。
この記事では、恥ずかしいという感情と悪循環の始まりについての、個人的な見解を書いていく。

別に恥ずかしがらない方法とかではないので、恥ずかしがりを解決したい人にこの記事はオススメしない。
あくまで、恥ずかしがりが損をするメカニズムと、なぜ恥ずかしがりになるのかを考察した内容なので、悩みの言語化の一助になるかも、程度に読んでいただけるとありがたい。


恥ずかしい感情は何の役に立つのか?


まず疑問なのは、
恥ずかしいという感情が、なぜ人間に備わっているのか?
そして、何の役に立つのか?

である。

損をしてきた人からすると、無駄な感情と思うのも無理はない。
繰り返しになるが、僕もそう思っていた時期があり、数年前に一世を風靡した、あおり運転男を羨ましく思ったりもした。

思い出しがてら検索してみたが、彼は逮捕前にも自宅前で大暴れしたようだ。


恥ずかしいという感情は、なぜ人間に備わっているのか?


まず、なぜ恥ずかしいという感情があるのかというと、人間は高度な社会性を持った生物だからである。
社会性を持たない生き物は、恥ずかしいという感情を持っていない。
群れで行動する動物であっても、人間ほど恥ずかしがったりはしないだろう。

高度な社会性を持つ人間に生まれたからこそ、僕たちは些細なことで恥ずかしがる。
なぜなら、恥という感情には、集団に溶け込むうえで重要な役割があったのだ。

はるか昔の人間にとって、集団から排除されることは、そのまま死を意味していた。今のように、弾かれた個体にも生命の保証をする仕組みは自然界には存在しなかったからだ。群れからはぐれた個体は、満足に食べていくこともできず、他の獣から身を守ることもできず、病気になれば孤独に朽ちていくしかない。自然界において、集団から排除されるということは、確実な死を意味した。
そういう意味では、現代に生まれたのは幸運だったと言えるだろう。

恥は、何の役に立つのか?

また、人間が恥ずかしいと感じるのは、決まって集団から逸脱しかけた時である。
周りの仲間たちと自分の言動がずれている、協調ができない、などなど、集団の輪からはみ出そうになるほど、僕たちは恥ずかしさを感じるようにできている。
要するに、集団から弾かれないように脳が発する警報として役立っていたのだ。

まずい行動をしようとした時に『逸脱しているぞ、仲間の信用を失うぞ』という信号が全身をめぐり、僕たちはたちまち赤面してしまうのである。

この警報のおかげで、集団の中で生き延びる人間が増えたと言っていいだろう。

だが、これがうまく機能していたのは、あくまで昔の話だと僕は思う。
今の日本では、自死を選ばない限り、集団からの逸脱が命の危機に直結することはあまりない。人の天敵となる動物はことごとく生活の場から遠ざけられているし、食べ物はスーパーやコンビニで気軽に買える。体調を崩した時は、すぐに病院にかかることができる。
群れることなく人が生きていくのに、これほど適した時代はないだろう。

だが、恥という感情は、現代社会を生きる僕たちの中に根強く残っている。恥知らずな人間が図々しく振舞い、得をしているのがわかり切っているにも関わらず、僕らは発言をためらい、些細なことで赤面し、対面の場で目を伏せずにはいられない。

個人的には、堂々とした人よりそういう人のほうが好きだが、残念なことに恥じらいが強い人は、現代においては馬鹿を見ることが多い。

恥の文化の表裏

日本には恥の文化があり、日本人は恥ずかしいという感情を強く内面化していると言われている。
空気を読むという言葉が広く浸透していることからも、日本人が集団との同調をいかに重んじているかがうかがえるだろう。

僕たちは日々、集団の中に身を置いている。圧力の強弱はあれど、基本的には集団から逃れることはできない。そして、集団に属している以上、逸脱行為に対して警報を鳴らしてくれる恥は、ある程度の役には立つだろう。

しかし、警報の感度が高すぎる人がいる。
過剰な恥を持ってしまった人だ。
過剰な恥は有害で、人生を蝕む呪いになる。

大勢の前でしゃべるのが恥ずかしい、初対面で会話するのが恥ずかしい、声を出すのが恥ずかしい、立ち振る舞いが恥ずかしい、髪型が恥ずかしい、服装が恥ずかしい、目鼻立ちが恥ずかしい、存在自体が恥ずかしい…。
恥に縛られていくと、やがて何もできなくなっていく。
何も言わない人、何もしない人は、その場に居ないも同然であり、相応の扱いを受けることになる。

どうして過剰な恥を持った人が生まれるんだろうか?
適切に恥を抱き、集団に同調できる人と、過剰な恥を内面化し、集団で浮いてしまう人。
両者の違いは何なんだろうか。

個性や生まれつきと言ってしまえばそこまでだが、それだけとはどうしても思えない。
では、原因が何かというと、僕は環境だと思っている。


環境が恥を呪いに変える

過剰な恥ずかしがりの原因は、育った環境だ。
生まれ育った家、通った小中学校での経験が、恥ずかしがりとそうでない人を分けている。
特に命運を分けるのは、親が子供のことを嘲笑したり、からかったりする人間なのかどうかだ。

例えば、子供が勇気を出して自分で服を選んだとする。女子であれば、初めて化粧をした時もそうだ。
どんなに拙くても、それは子供が勇気を出して踏みだした、第一歩に他ならない。
だが、それを嘲笑する親がいるのだ。
親に嘲笑された子供は、着飾ることに抵抗感を抱くようになる場合が多い。
ひどい場合は、数十年単位で身なりに気を使えなくなるようだ。
『人は見た目が9割』という本がベストセラーになる時代、身なりを整えることに抵抗感を抱かせるのは、はかりしれない機会損失につながる。

そもそも、子供のやることを大人が、よりにもよって親が嘲笑するなんて…、と思うかもしれないが、そういう親は意外と多い。
つい口走ったとかではなく、本気で馬鹿にする親もいるのだ。

さらに言えば、幼児の一挙手一投足を笑いものにする大人もいる。

親による、逃げ場のない子供への嘲笑は、権力者による暴力と言っていいだろう。
大人にとっては軽口だが、子供にとっては根深い傷が残る体験だ。
殴らなくても子供は傷つく。
そういう大人げない親の元に生まれてしまうことは、不幸という他ないだろう。
子供は生まれる家を選べないからだ。

そして、子供をあざ笑う親の元で育った子供がどうなるかというと、散々紹介してきた、過剰な恥を抱くようになる。
中には、恥じらいを暴力でごまかしながら生きる人もいる。
(さっき紹介したあおり運転男にも、なんらかの恥による被害者意識があったのかもしれない)

しかし、たいていの場合は暴力にも頼れず、恥に縛られたまま生きる大人になるだろう。また、家での環境がまともでも、小中学校での過剰ないじりやいじめが原因となることもあるだろう。

どちらにしても運の問題であり、人生の初期に悪循環が始まると、過剰な恥を内面化しやすくなるというのが僕の考えだ。

そして、治るかどうかも運次第である。
前向きな人、あるいは前向きな集団とのかかわりで治ることもあるが、確実性はない。
むしろ、弱々しさを嗅ぎつけた人間の食い物になる可能性のほうが高いだろう。要は舐められやすくなるのだ。

家庭環境、あるいは学校など、どこかがダメでもどこかに救いがあれば、立ち直ることも可能なようだ。
恩師との出会いで、友達との出会いで救われた、などの体験談はたまに見かけたことがあるので、ある程度の可能性はあるんだろう。

逆に、どこにも救いの手がなかったり、救いの手を握り返せないほど重症な場合は、いつまでも尾を引くことになる。
どこへ行っても、何歳になっても人間関係に難を抱えることになるだろう。
無用な心配で消耗し、仕事でトラブルを起こし、趣味の場で浮き、居場所がどんどんなくなっていく。
あまりにひどい場合、精神疾患の原因にもなりうる。

ここまでくると、もはや性質の悪い呪いだ。

救いようのない話になってしまって申し訳ないが、これは多くの人が抱えている現実でもあると思うので、考えをありのまま伝えておいた。
同じような問題を抱えた人が、少しでも健やかに過ごせるように、草葉の陰から祈らせてもらう。

本文は以上になります。
ここから先は有料エリアですが、僕の近況的な内容で中身もありません。
気の向いた人だけ、おひねり感覚でどうぞ。


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