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冬苺(ふゆいちご)  四、渦の底

一、 虫の味  
二、 人形の部屋
三、 彩雲   
四、 渦の底  
/ 全四話

 ポケットで暴れる二百万超の札束を爆薬のように抱え、全力で渦を下った。だが、押し流されているのではなかった。いちごは今、自分の筏で、朽ちてなお生きようとしているような流木で組んだ筏で、運命の濁流を下っていた。

 螺旋を登ってくる車のクラクションをはねのけ、勢いを増しながら地下駐車場へ向ういちごのすぐ後ろを、ケイらの足音がカラスの群れのように追ってくる。勢いがつきすぎ一階あたりでカーブを曲がりきれなくなって、駐車場から出ようとする乗用車にぶつかりかけた。激しく足踏みしながらスピードを落としたいちごは追いつかれた。

「うらぁあっ!!」

 ケイの足が、いちごのコートのポケットの封筒を蹴り出した。転んで止まったいちごから、出口の外の路上を赤く嘗め回す赤色灯の光が見えた。安川の血痕が通報されたのだろう。救急車だろうか。

「逃げんてんじゃねーよ、てめえ。俺らが待てっツってんだろ、このクソ!」

 追いついた勇二がいちごを挟んで仁王立ちし、封筒が吐き出した札束を見つめた。五十万以上ある。さすがにたじろいでいる二人に、いちごはつかみ上げた札を投げつけた。

「くわっ、……!」

 ケイを突き飛ばしていちごは走った。買い物帰りの車が上がってくる回廊の湾曲した壁にはりつくように、死にものぐるいで底へ下りつづけた。

 コンクリートの筒の中で激しく反響しつづけた足音が、地下駐車場に吐き出された。

 渦の底にたどりついた。

 急に広がった地下駐車場は一瞬どっちを見ても全部同じに見え、いちごは方向がわからないまま走り続けた。

「着きました。地下です」

<奥だ>

 時々通る車のライトを裁ち切りながら、広い場内をやみくもに斜めに横切っていくと、背後で鳥の鳴き声ようなタイヤの音が響きケイらのスニーカーの音と混じった。倉庫かと思うほど車が少ないのに自分の家の車が、今は野賀の車がわからない。

(ゼンゼン、わからない! ……連絡ブース!)

 店内に入ったときの連絡ブースが、海底に着底した潜水艦のように光っていた。

「ブースがあります、店に入る。明るいとこ」

<昇りか下りかどっちが見える>

 エスカレーターのことだ、目を凝らした。

「昇りです」

<反対側だ、上に非常灯>

 ブースのさらに奥の通路をSUVが通り過ぎたあとに、緑の非常灯が見えた。

 踏み出した足の前に勇二が躍り出た。横へ逃げた瞬間、前を塞いだケイがモモカンを入れた。身体をくの字に折ったいちごを勇二が後ろから羽がい締めにした。

「てめー、このヤロー、てめえ。俺らが待てっつってんだろ、このヤロー!」

 ケイの平手をくらい、止まった鼻血がまた出てきた。彼らはいちごが自分たちの所有物のような意識になっていた。理屈ではない本能的なものだ。所有物が持ち主の思うとおりにならないのは許しがたいことなのだ。完全ないじめの末期症状だ。

 ようやく脱力したいちごを勇二が何も言わずひと気のない奥の一角へ引きずり込んでいく。追いついてきた未唯が握った札束をいちごの顔に突きつけた。

「マジ、何なのこのお金」

 いちごは、一番奥の角のブロックに引きずり込まれた。後ろと右が壁で、左側をピックアップ・トラックがふさいでタコ壺になっていた。手前の通路を車が通っても壁にあたって折れて離れていく場所だ。連絡ブースから遠く、駐車中の車は少ない。

「黙んじゃんえよ! なめてんのか。アアッ?!」

 ケイが拳をぶつけた。未唯がいちごのポケットに指を突っ込んでキャッシュ・カードを取りだした。名前の違う他人のカードだ。

「マジかよ」

 ケイがあきれた声でつぶやいた。

「マジでか、オレオレか。オレオレやってんのか?」

 近づいてきた真理絵に未唯がキャッシュ・カードをもて遊びながら見せた。

「ヤバくない?」

 走らされて不満げな真理絵が、さげすむような目でいちごを見た。

「バカってひとつ覚えるとこうなるよね」

 しゃべらないいちごの腹をケイが突いた。

「仲間、いんのか?」

「かかわんない方がいい。限度超えてる。ダメ、こいつ」

 真理絵の言葉に未唯が残念そうな顔をした。ケイがいちごの胸ぐらをつかんで壁に押しつけようとしたとき、いちごは車止めに足をとられ、地面に尻をついて壁に頭をぶつけた。ひどい音がした。

 のろい車が来た。通過せず、タコ壺の前でしばらく停止してから五人のいるスペースに頭を入れてきた。軽自動車は斜めになって停止し、闇の奥の五人を照らし上げた。真理絵が、ライトの眩しさから逃れるようにトラックの後ろへ隠れた。

「行こ」

 ライトが切れると切り返しを始め、二台分の駐車スペースを使って横向きに停車した。タコ壺がふさがった。エンジンがかかったまま反対側の運転席のドアが開く音に気づいた真理絵が、トラックの後ろから横に回った。

 壁づたいに出ていこうとする真理絵の前に、野賀が立った。

 出口を塞がれた真理絵は、不審者を見る目で野賀を見て黙った。男は、暗がりで深い目が落ちくぼんで見え、うつろな目で吐く白い息は魂を吐いているようだった。

「戻れ」

「私は、」

 真理絵が言葉を発した瞬間、野賀は真理絵の首をつかんで押し戻しだした。声を出せずトラックの後ろから押し戻されてきた真理絵を見て、勇二が近づいた。

「おい」

 野賀の手を逃れた真理絵が、口元に変な力入れて引きつらせた顔で勇二の背後まで後ずさった。勇二は、いちごの持っている金と男の様子から見て、オレオレ詐欺の本体に間違いないと思った。ヤクザならまずい。

 ケイも未唯も一瞬で子供の顔になっていた。だが、勇二は違った。

(小っこい車だし。汚ねえバッグとか下げて貧乏くさい、金無いやつだ。ヤクザじゃない、しょぼくせえ。痩せてるし、弱そうだ。たぶん俺より軽い)

 やられた真理絵の前で自分をみせる、みせねばならない場面でもあった。

(だいたいオレオレなんてゴキブリと一緒だ。暗いトコでガサガサやってるから怖がられるだけだろ。勘違いして、明るいトコ出てきたら踏みつぶされるだけの連中だ。踏みつぶしてやる!)

 勇二はイケる、と踏んだ。正義感すら持って、ポケットに手を突っ込み上目づかいに睨みつけた。

「なんすか」

 野賀は勇二を無視し、しゃがみ込んでいるいちごの方へ幽霊のように歩き出した。未唯が後ずさる。野賀の白目が未唯の手の札束をとらえた。野賀が札を抜き取ると、勇二が正面に立った。

「つーか、オレらなんも関係ないんでェ」

 青くなっている未唯やケイの前で、勇二は、大人の犯罪者相手に「お前、死ぬぞ」と言わんばかりの余裕を見せつけた。だが、いちごは、野賀がショルダー・バッグに手を入れるのを見た。

 無視されたことのない勇二は野賀の肩に手をかけ、マジギレを予告させるように声を荒げた。

「オッサン! 言っちゃうけどボクって、マジ……」

 勇二の置いた手を見つめながら野賀がバッグを楯のように押し当てた。怖じ気づいたと思った勇二は、額を近づけ身体を押しつけるように迫った。バッグが乾いた金属音をたてた。「うっ、」とくぐもった声の後、胸に手をあてた勇二の顔が瞬間的に怒りの頂点に達していっきにしぼんだ。

「ん…… ぅえ?」

 おさえた手の上から釘の射出音が連続した。野賀は四回打った。

「あぁ?」

 眉毛を八の字にして、自分の胸から離れなくなった手を見ながらひざを折ると、薄暗い蛍光灯の光の下で、水底に着くようにうずくまった。黒い塊になった勇二の頭にもう一発が打ちこまれた。頑丈な勇二の身体がクラゲのように崩れた。

 野賀が、首だけはずれかかった人形のようにあたりを見回した。

「じっとしてろ」

 かすれたようなくぐもった声が皆の頭の中に拡声器のように響いた。誰も動けない、声も出せない。真理絵は陶器の人形のようになっていた。踊るように震えだした未唯を見た。

「声出すな」

 未唯が縦に振っているのか横に振っているのかわからないほど震えながらうなづいた。野賀は、目を逸らして固まっているケイをじっと見た。困ったときの顔をしたことがないのか、痙攣のように目をしばたたかせながら地面を見つめている。野賀がしばらく見つめていると、全身全霊を込めたような奇妙な瞬きになっていった。

 野賀は、バッグから手を抜くと、ふたたびいちごの方を向いた。コートの胸ポケットに手を入れていちごの前に立ったとたん、背後でスニーカーが鳴いた。ケイが疾走した。野賀は胸ポケットから出した腕を後方のケイへ向けてまわしていき、身体が向ききる前に乾いた破裂音と光が飛んだ。花火のような残像が消えるのと同時に、軽自動車とトラックの隙間をすり抜けようとしたケイが足をはらわれたようによろめいて顎をぶつけた。野賀は、ケイが逃げると踏んでいた。

「テ、うぅー」

 情けない声を漏らし足をおさえて逃げようとするケイに、野賀の腕が機械のように上下に揺れて閃光を二回放った。パンクするような音に合わせてケイの髪が一瞬はね、軽の後部ガラスに顔で血を塗りながら車の隙間にへたり込んだ。完了を告げるように薬莢が地面できれいに鳴り、吸い取ったケイの魂のように硝煙が闇に滲んで消えた。

 ケイの死体を引きずってきた野賀は、未唯と真理絵に向かって駐車してあるピックアップ・トラックを拳銃でさした。野賀の腕の先の拳銃は思ったより小さく見えた。

「下へ突っ込め」

 二人は、手分けしてケイの足を引っ張りだした。地面に残る血の筋を見た未唯は完全に泣きだしていて、カラコンがずれた目をしばたたいた。真理絵は使ったことのない筋肉を使い額や顎に見たこともないしわを浮かせて、泣くよりいびつに顔を引きつらせていた。学校の誰も見たことがない真理絵の顔だった。

 吹雪の中をさまようような恰好でケイを引きずる二人の後ろで、野賀は勇二の襟を引っ張って壁にもたれかけさせると、いちごの前にきた。

「カネ」

 言われるなり両ポケットの札束をいっきに差しだした。銃をしまい、雑に枚数を確認しはじめた野賀にいちごがキャッシュ・カードを出した。

「ま、まだ引き出してないやつ」

 受け取ればいちごは用済みの可能性が高い。野賀は黙って札を数え続けた。

 ケイの身体をトラックの下にうまく入れられず、焦る未唯が鼻をすする音がひどくなった。押しても押しても入らないケイを押し続ける未唯の後ろに立つ真理絵が、陶器に空いた穴から覗くような目で、黒い鏡のようなトラックのボディに写る野賀を見ていた。ゆっくり振り返った真理絵が野賀の背中を見ながら後ずさり、蟹歩きし始めた。いちごは彼女から目を逸らし、野賀の手元を見た。野賀の指は札に慣れていなかった。半分ほど数えたところですべての封筒を自分のコートのポケットに入れていちごを見た。いちごは生唾を呑んだ。

 通路の方から人の話し声が近づいてきた。振り返った野賀は、ケイの血の筋からはずれいつの間にかトラックと軽自動車の隙間に立つ真理絵の視線を見つけた。ゆっくり近づく野賀に真理絵は、かすかに喉を鳴らし隙間から出ようとするが抜けられない。反対の隙間に向かって横に逃げた瞬間、野賀が走った。蹴られた薬莢がトラックのホイールに跳ねて鳴り、飛びかかった野賀の腕が真理絵の叫び声をつぶすように横顔をウインドウに叩きつけた。真理絵がうめき声を上げて手足をバタつかせた。野賀はもう一方の手を背中のショルダー・バッグに突っ込んだ。

「ヤあ、」

 思いのほか抵抗され、もみ合ううちに、バッグから緑色の意外なほど大きな釘打ち機が姿を見せた。釘打ち機は、真理絵の手を振り払いながら身体に喰いついた。

 いちごは、射出音と同時に家畜のような声を聞いた。顔がつぶれそうな程ウインドウに押しつけられながら沈む真理絵の身体を射出音がしつこく追った。最後に、軽のボディに張りついた真理絵の腕が落ちるのを見た。

 駐車場内に工事作業のような機械音が何度も響いた。すぐ近くまで来ていた買い物客らに聞こえているはずだが、気にする風もなく途中で通路を曲がって自分の車へ向かっていった。

 野賀は、真理絵の髪をつかんで引っ張ってくると、バンの下に半分身体を突っ込んだケイを足で押し込んで、後ろに重ねるように並べた。

 ケイは真理絵が好きだったんだろうと、いちごは思う。ケイは、なぜだかあまりモテなかった。一コ上のロシア系の桁違いの超イケメン、香川先輩と比べられがちで、香川先輩は無理だからケイ、って感じになるのがあったのかもしれない。真理絵は、本当かどうかわからないが香川とつき合っているという噂だった。香川と噂になるだけでもさすがだが、噂だけなのが真理絵らしいとも思った。

 コンクリートの上を這った二本の血筋が、トラックの下で重なっていた。ケイは、お笑いタレントが飛び跳ねるような格好で足を出していた。

 顔中からミミズのように赤い筋が流れ出てひび割れた陶器のようになった真理絵が、いちごを見ていた。生きている、と思った。死んだ真理絵の瞳を見てわかった。真理絵は視点が動かないのだ。真理絵の視線が不気味に見えたのは、瞳に表情がないからだったのだと思った。些細な話しにさえ寸分とも視点を動かさずに人の話を聞く。怯えているのか、怒っているのか、どんなときも相手を探ろうとして、じっと相手を見据えていたのだろう。彼女の瞳の黒さは、命の光を持たない黒さだった。死人と同じ目をしていたのだ。

 いつからなんだろう、といちごは考える必要もないことを思った。

 上手に立ちまわり、自分を否定させるものを上手に排除していく真理絵の生き方は、おそらく彼女自身に一生自分の瞳の色を知らせずに、そして誰からもどこか不気味に思われながら生きていったのだろう。

 真理絵のまわりに赤黒い血だまりが広がっていった。

 兵隊のように直立して前だけを見つめて震えている未唯の前を素通りして、野賀がいちごの前にきた。

「立て」

 いちごはゆっくり立ち上がった。

 野賀もだ。やはり野賀もすでに死んでいるのだ。彼は自分の命を取り戻そうと片っ端から人の命を喰っているのだ。いちごは生れて初めて死を覚悟した。

「乗れ」

 一瞬言葉が理解できず、数秒遅れて足を踏み出して野賀の前を横切ると、背中を釘打ち機の先端が押した。

「早く」

 殺されない。まだ少し死なないでいられるらしい。

 後部座席に大きな荷物があった。ビニール・シートがかぶせられて後部窓を半分塞いでいた。助手席に血の痕があり、乗り込むと異臭がこもっていた。ドアの外で、野賀が未唯を見ていた。

「待ってろ」

 と言って野賀が奥へ戻っていく。

 勇二がつぶれたあたりが水浸しになっていた。全部彼の血だ。勇二をトラックの後ろへ隠すのだろう。

 だいぶ前、駅裏のコンビニの前でたむろする連中にガンをつけられながら素通りする勇二を偶然見た。同じくらいか、彼より年下くらいの、明らかに学校に行ってない連中で、みんな茶色か金色に髪を染めて大きなスクーターに腰かけていた。からかわれても一ミリも反応しない勇二を見て笑っていた。連中は前から勇二を知っている風に見えた。後ろを歩いていたいちごは、勇二がどんな顔をしていたのかは見ていない。

 プランクトンを魚が食べて、魚をサメが食べ、人間がサメを殺す。いちごは、自分がプランクトンなのは知っていた。日増しに身体が大きくなっていった勇二は、魚からサメになろうとしていただけだった。自分の血を見ながらうつむいている勇二は、せっかくがんばったのに思うことがかなわなくなって口をとがらせた子供のように見えた。

 未唯は野賀の目を見ることができずうつむいて、ものすごく苦いものを食ったように唇をゆがめて震えていた。虫でも食べたように。そして、つり上がった目がふさがって小さな窪みのようになった顔は、じゃがいもみたいになっていた。

 いちごが高校生になったとき、隣り合わせたのが未唯だった。入学したての未唯は暗く、いつも怯えと憎しみをかみ砕いているような顔で小声でしゃべった。未唯と同じ中学の数人が、陰で中学時代のあだなが”じゃがいも”だと言っていた。いじめられっ娘だったらしい。特に友達でもなかったけれどいちごは普通に接した。未唯は二年になって変わった。彼女から、いちごへのいじめに加わってきた。いちごを抑圧することで、初めて何か知らなかったものを味わっていたのかもしれない。脱皮したのだろう。彼女なりに成長したのだ。

 未唯は、彼女なりの道を必死に生きているだけだ。勇二だってそうだ。みんなそうなのかもしれない。ケイも、真理絵も。知られたくない何かに抗していたはずだ、といちごは、彼らが生きているときには思いもしなかったことを思った。

 いちごは、今未唯の暗かった表情の裏側がわかる気がした。そして、彼女みたいになっちゃいけないと思った。だが、無意味だ。野賀は未唯を殺し、いずれすぐ自分も死ぬ。そして、彼らの血と一緒にいちごの赤黒い時間も蒸発していく。

 駐車場内を移動する車のライトがときどき車内に差し込む。人影が見えるのは、売り場への入り口に近いところだけだ。運転席を見ると、野賀が音を立てないように降りたせいか、半ドアだった。いちごは首を野賀の方に向けたまま、おそるおそる運転席に手を伸ばし、ドアを押してみた。駐車場内の雑音だけが入ってきた。猫のようにゆっくり、こっそり運転席側に移ってドアを開いた。

 いちごは、いちごは息を止めて外に出た。踏切の遮断機の信号のように心臓が拍動する。そっと振り返ると、しなびたじゃがいもみたいになった未唯の顔が見えた。野賀がバッグに手を突っ込んだ。

 バン!

 いちごは思い切りドアを閉め、走った。すぐに、軽の車体を弾き飛ばすように野賀が通路へ飛び出してきた。いちごは、薄暗い海底洞窟のような闇の先に見える光に全力で走った。

(家に! 私が先に行けば! 警察、途中で警察に電話して……、)

 さっきより身体が軽い。どれだけ大量の札束を抱えて走ったのかをあらためて感じた。

 だが、いちごは失敗した。隠れながら駐車中の車の間を抜けようとしたが、行く先は連絡ブースだ。野賀はわかりった方向へ広い通路をつっ走ってあっという間にいちごと並行になるところまで来た。車の間から通路へ飛び出すふりをしてから逆走したいちごは、元の通路まで戻って軽の横を奥へ逃げた。未唯は立たされた生徒のように同じ場所で震えていた。


 後ろに出た野賀の手の先に拳銃が見えた。いちごは地下駐車場を周回するように壁にあたって直角に折れた。連絡ブースが離れていく。

 通り過ぎる車に手を伸ばし叫んだ。

「助けて!」

 通り過ぎ、背後で停車した車の真横を野賀が突き抜けてくる。少し離れたところで車に乗り込もうとする買い物客が見えた。

「助けてっ!」

 叫びながら全力疾走で駆け去るいちごを、奇妙な顔で見ているだけだ。もう一度角を曲がると、自分が下りてきた螺旋の出口が見えた。いちごの声が聞こえたらしい人間が下りてきた。紺の帽子をかぶっている、警備員だ。いちごは絶叫した。

「助けてーっ!」

 身構えた警備員の真後ろへ回って腕にしがみついた。巻き上げた長い髪、変わった帽子、警備員ではない。上腕に、”警視庁”。婦人警官だ。マスク越しの目もとに記憶があった。

 銃声が響いた。

「あっ」

 婦人警官がひざを折った。いちごは声も出せず、脇腹のあたりをおさえる警官の真横で、ゆっくり近づく野賀の銃口を見た。しゃがみこんだ婦人警官はホルスターから拳銃を抜き、片手うちの姿勢をとった。

「走って」

 いちごは通路を横に走った。マスクごしの横顔を見た。

(地蔵女だ)

 婦人警官の銃口が野賀を追って瞬きながら横へ回っていく。野賀が通路から駐車スペース内へ逃げたのだ。来る! いちごは、前方の突き当りで訝しげな顔で見ている買い物客の方に向かって必死に走った。

 客の背後に二本の光の帯が降りてきた。エレベーターだ。

 いちごの背後に飛び出た野賀が引き金を引いた。金属音だけだった。野賀は、激しく遊底を前後させジャムった薬莢を吐き出した。走りながらふたたびいちごに狙いをさだめた野賀の背後で、婦人警官が両手撃ちの姿勢をとった。グリップ・エンドにそえた手から血がしたたり落ちた。

 閉まりかけたエレベーターに飛び込んだいちごを銃声が追いかけ、転がりこんだ勢いで奥にぶちあたったいちごの顔の真横に小さな穴を創った。婦人警官は撃てない、いちごがいるからだ。いちごが弾痕と反対側へ身体を返した瞬間、迫る野賀と目が合った。野賀の腕先に閃光が見えた。

「!」

 脇腹をモップの柄で強く突かれたような感じがあった。

 スライドが下がってバレルを剥き出しにしたままの銃口が扉の隙間に突っ込む寸前、銃声が響いた。扉が閉じ、二発目とともにガラス窓に入ったヒビに野賀の顔がはりついた。網入りガラスの網をつかもうとする野賀の眼前をエレベータが昇り始めた。昇っていくいちごをヒビの向こうからにらみつけながら野賀は沈んでいった。底から三発目の銃声が響いた。

 背中に二つの弾創を背負ってつぶれた野賀は、目を剥いて腕だけを背後に向けた。地下駐車場に最後の銃声が響いて野賀の腕が落ちた。膝立ちしていた婦人警官がゆっくりうずくまった。

 上昇する箱の中、いちごは窓ガラスに張りついた野賀の復讐にのろわれたような眼に襲われながら丸まっていた。

(撃たれた……、私、撃たれた)

 弾丸の当たった脇腹の痛みがいつくるのかに身構えて、震えが先にきていた。傷口を見ると痛みが始まる気がして下を見られない。天井を見ながらコートの下の脇腹をゆっくりまさぐった。

 手のひらを見る。血はついていない。制服の下に手を入れてみた。まだ血はつかなかった。おそるおそるコートの撃たれた辺りを手の平でまさぐると、小さな穴がやはりある。目をつぶり、歯を食いしばってポケットに手を入れた。盗んだスマホがあった。ゆっくり取り出すと、二枚のうち一枚目を貫通した弾丸が二枚目に突き刺さって止まっていた。

「ぅあぁ、ふぁ……」

 涙も出なかった。ただ、喉が、全身が震えつづけ、傷がないのに脇腹が痛いような気がしていた。

 野賀が来る。どうすればいいのかもうわかならない。パニック状態のいちごには非常ボタンに考えがおよばなかった。そもそも非常ボタンで助けが呼べるとしても、今は野賀が来るとだけしか認識できなかった。何より、早く家に行かなければ、野賀より先に家に行かなければと焦りだけがこみ上げた。

 チャイムの音が薬莢の落ちる音に聞こえた。屋上についた。扉が開いたが、野賀が入ってきそうで動けなかった。だが扉が閉まりはじめると心臓が止まりそうになり、身体をぶつけて這うように屋上駐車場に出た。さっきの足跡はもう雪に埋めもどされていて、まっ白な湖になっていた。

 スーパー内はパニックが始まったところだった。

 警官が次々と地下駐車場になだれ込んできた。警察無線の音と怒号が飛び交う中で、コートをかぶせられた未唯が取り囲む警察官らの質問に答えていた。

「生存者二名、一名捜索中」

 担架に揺れる婦人警官が、血だらけの指で天井を指さしていた。警官らが、「上、うえ!」と叫びながら階段、エスカレーター、エレベーターに分かれて上がっていった。

 頭を撃ち抜かれた野賀の身体は警官らに囲まれていた。刑事が、スライドが下がって銃口がむき出しになった拳銃をペンでつつきながら言った。

「弾切れ。マカロフ」


 屋上では、いちごのニット帽が、水面に浮き上がった赤い玉のように行き場をもとめて屋上をさまよっていた。

(お母さん、どうしよう。殺される。お母さん……)

 いちごは携帯を取り出した。野賀の通話は切れていた。美鈴をコールした。出るわけがない、縛られているのだ。

(そうか、警察。先、警察じゃん。110番)

 サイレンの音が聞こえた。

(地蔵女、死んだのかな。私かな。私のせい)

 コールしながらいちごは撃ち抜かれたスマホを握りしめた。

(全部調べられる。盗んだことバレる。婦人警官が万引き女子高生を助けようとして殺されたとかテレビに出る)

 ふたたびエレベーターが上がってきた。地獄の底から野賀を乗せて戻ってくる。非常階段に向かったが、鉄を踏む靴音が足早に登ってくるのが聞こえて引き返した。もう一回スロープを下ろうかと思ったが、地下へ通ずる暗い回廊から野賀が上がってきそうに見えて足が動かない。

 110番がつながった。

<事件ですか、事故ですか>

 おぞましい出来事は赤黒い記憶を呑み込んで、すべて渦の底に沈んでいったことをまだ認識できないいちごは、前にも後ろにもどこへも行けなくなり声をあげた。

「来ないで。私、なんにもしてないじゃん。なんにもできないよ、私。もう、来ないでよぉ」

 サイレンがどんどん集まってくる。

 粉雪をかぶった赤いニット帽のいちごが立ちすくむまっ白な丸い屋上を、いくつもの赤色灯が囲んで揺れていた。

 雪粒が静かに懸命に降りつづけていた。何もできないまま地面に落ちて、やがて解けて消えていくのを知っているのに、暗闇の色を少しでも変えようとするかのように、何も言わず。


       夏の草花苺には 冬にるのがある

       苺に見えない冬苺

       林の外れの道路のわきなどに生えて

       ときどき間違って 棘のないのがある

       なのに どういうわけか 冬苺の花言葉は

       未来の予感


(了)


 最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
 note初作品、ようやく完了です。

 スキしてくださった方、本当にありがとうございます。

 蒼井あぜ


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