授乳/村田沙耶香(感想)
短編三本からなる村田先生のデビュー作。
表題作、『授乳』大学院生の先生と、女子中学生の話。『コイビト』ぬいぐるみに依存する女子二人の話。『御伽の部屋』大学生の男女の話。
村田先生にはかなり潔癖なところがある。身体描写が特徴的。
目を肉体の裂け目と表現したり、食べることに思い入れがない。
飲食の描写が特徴的だと感じる。人の食べるシーンに嫌悪感がある。
授乳、タダイマトビラ、消滅世界、コンビニ人間と読んできたけど、一貫して家族と生殖がテーマになっている。毒親的な描写がある、また拒食症的な身体感覚と言い、村田先生の描く世界は独特だ。
デビュー作では母親がほとんど出てこない。しかしその影は濃厚で、授乳では思春期の娘が先生に授乳することで家族ごっこを味わう。先生は母親に捨てられた子だった。物語の最後で蛾、あるいは母親を踏み殺す描写がある。コイビトではぬいぐるみへの性愛をテーマに、その陰で描かれているのは母親からの支配から逃れようとする少女たちの葛藤だ。食べない。噛まない。咀嚼を嫌悪する少女たち。ぬいぐるみの排泄として、紙袋に入れた食べ物をトイレに流すシーン、やせすぎた少女たちの体を示す描写。物語の転換、ふたりの少女がふっくらしていく様子が描かれている。
御伽の部屋 では、ゆがんだ母性の供給が「まっとうな」他者の登場により断たれ、自己供給に至るまでの物語だ。ここにおいて乳離れが示唆されている。
女性作家に特徴的なのがこの離乳に関する描写だと思う。男性作家の物語に離乳はなかなか描かれない。自己犠牲、自己成就、自己憐憫、これらが男性作家の好むプロットの三つの柱だと勝手に思っている。
それに比べると女性の物語は自分から心地よい世界に別れを告げる思い切りがある。自分から「悪い母親」に見切りをつけるのが早い。
三篇とも主人公は女性だ。彼女たちは自分の手でつたない家族の幻想にすがろうとする。幻想は些細な刺激でほころびを見せ、破綻する。そして少女たちは自分の足で、細すぎるその足で自立することを選ぶ。
授乳では母親を踏みつけ、コイビトでは「それなしでは生きられない」、御伽の国では理想の恋人に自分自身が成りきることで、鏡の中の自分と出会う。この三つの物語はうまく循環している。母性を与えようとして失敗する女、ぬいぐるみとの関係を自己供給し、その気味悪さに嫌気がさしぬいぐるいみを窓から投げ捨てる女、偶然出会った大学生に理想を投影し、庇護されることを望む女。女が求めているのは恋でも愛でもなく、ただ母性だ。『授乳』では大学院生との授乳シーンを目撃され、ふたりを引き離す母親を「にょきにょきと『母』が生えてきたのだ」と描写し、『コイビト』ではぬいぐるみを投げ捨てた主人公に同じくぬいぐるみに求愛する女子小学生が『何度捨てたって、必ず、きのこみたいににょきにょき生えてくるんだよ。ソレがなくちゃお姉ちゃんはもう、生きていけないんだもん』と告げる。『御伽の部屋』では主人公は完ぺきなケアを求め、介護の本をお守りみたいに買い求める。主人公は完ぺきな庇護のもとにあるはずなのに、アイスクリームしか口にせずやせ細っていく。物語の最後では、彼女は完ぺきな理想の人格を自分の中に認める。
与えられなかったものを手にしようとして悪戦苦闘する女たちの姿は、哀愁に満ちていて、したたかで、一種不気味なくらいに冷酷で、滑稽だ。せめてその執着を恋だとか愛だと錯覚できるくらい、胡乱な女たちであったら。
あったら? あったらどうだというのだろう。母親たちと同じように過ちからまた同じような生き物を生産するだけだっただろう。だから村田紗耶香の書く女たちはいつも、自らの中に癒しを見つけるのだと思う。
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