note記事につかれて

最近、noteから記事が送られてくる。
私が統合失調症を治療中であるからか、
統合失調症の皆様が書かれた
様々な記事が目に入る。
その様相は、玉石混交の一言に尽きる。
膝を叩きたくなるような痛快な社会批判が、
どうしようもない本人の主観やこだわりと
セットでやって来る記事がある。
福祉施設への感謝と幸福感に、いつの間にか、
批判と飢餓感がたっぷりとミックスされて、
後味が悪い記事がある。
あるいは、私が精神的に落ち込んだ時に、
絶望と不満と喧騒をまくしたてて
トドメを刺しに来る記事がある。

正直、つかれた。
疲れた。明るい話題や笑える話題に乏しい。
突かれた。安穏としている自己が揺らぐ。
憑かれた。思考が呑まれ、誘導されている。
読んでいて落ち込まされるのに、
離れることができない。
そして、深夜に思索に耽り、
翌朝の睡眠不足を嘆く。

記事の届けをオフにしたならば。
記事を端から読まなければ。
こんな苦しみからは無縁なのだろう。
しかし、読んでしまう。
読んで、苦しんでしまう。

苦しみが欲しいのか、と思ったが、
それは現実で嫌と言うほど体験している。
繰り返し見せられる青春時代のいじめられ体験。
沸騰する殺意。
毒に満ちた両親の老い。
加害者が被害者の皮を平然と被る。
減っていく支援者。
また一つの施設が発展的解消した。
親戚の責任の押し付け合い。
いつの間にか伯母の面倒を看ることになった。
一向に上がらない給与、ギリギリの財布。
欲しい物が減らない。
増え続ける本とCDとプラモデル。
床が3センチほど沈んでいる。
私を現金入りタクシーと見做す友人。
奴と食うのも運ぶのももう嫌だ。
そして、ふと気が付いたら、そこには。
読んだ誰かが不快にしか思わないであろう、
ありふれた独白をする統合失調症の私がいる。
どうしてこうなってしまうのか?

毒を吐けば楽になるかと思ったが、
却って混迷した気がしてならない。
今日もまたスマホを片手に、
誰かの不幸せな記事を読み、
誰かに不幸せな記事を読ませて、
暗鬱な人生を刻む。

もう、つかれた。


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