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【短編小説】「靉靆」

はしがき


 見慣れた天井だった。カーテンを開ける。見慣れた景色だった。右手を見てみる。やはり、治らないペンだこがあって、中指の左半分だけ爪が割れている。
 今日という良き日に、今日という忌み日に、私はどうしていいのかわからない。腕を思いっきり伸ばしてみる。そして、「今日は良い日だ」と好青年のように笑顔を作ってみる。
 しかし、嫌な頭痛は一向に治まらないのです。はぁ。溜息がちらり。灰のくぐもった顔で、胸のあたりをおさえる。潤んで、そのまま涙が出てしまいそう。はらり、と落ちる雫で、宝石でも作れてしまいそう。
 そんな気分。

第一章 夢


 乳白のような、柔らかい朝のことです。現代にしては、丁寧な(というよりかは、質素と言ったほうが的確であるが)暮らしをしていました。さっと着替えを済ませると、コーヒーを淹れて、ベランダに出ます。芳醇な匂いをいっぱいに取り込んで、ごくりと一口。しんとまだ少し冷たい空気に、溜息を溶かしました。
 この頃、私の調子がおかしいのです。病にでも侵されたようで、思うようにものに集中できません。それどころか、意識が断片的で、気付けばふらりとどこかに歩いている。最初の方こそ、疲れているんだ、と目を背ける形で受け入れていましたが、もう、だめみたいです。眠りながら歩いているような、ぼんやりとした生き心地。ねぇ、このままどうやって生きましょうか。
 そのとき、びゅん、と風が強く吹き上げました。それにのって、花びらがぱらぱらと雨粒のように舞います。そして、ひとり迷子になった一枚が、ひらひらとコーヒーカップの中に。かわいそうに、と呟いて、茶に染まった花弁を、摘んで逃がしてやりました。風にのって、またどこかへ飛んでゆく。仲間のもとに帰ったのかもしれない。仲間は、受け入れてくれるのかしら。じっとベランダに立ったまま、空気との境界を曖昧にしていく。風はみるみる強くなるので、轟々と、叫び声にも似たものが鳴り響きます。最後の、春の、抵抗。そんなふうに思いました。
 この嵐にのまれて、覚束ない足取りで川に溺れ、さくらで身を包んでしまえたなら、そこで心臓を休めたい。身が冷え切る前に、これは本物だ、と証明したい。あるいは、こぢんまりとしたバーに入って身を落ち着かせ、煙草をふかして、乱暴に酒を流し込みたい。
 私は、今、流れる世界を、肌で感じている。美しいのが、なんとも言えぬ悲しみを帯びている。
 台所にもどってコーヒーカップを置き、ほとんど何も持たずに部屋を出ました。京都とはいっても、田舎の方に住んでいましたので、なんてことない景色が広がっています。ここに越してきてから、三年ほど経ちましたので、もう随分と見慣れたものです。砂利道を適当に歩いて、できるだけたくさんの新しいものを探します。そこで、道の脇にある、紫陽花の葉々を見かけました。梅雨の時期になると、いつもこの道は美しい。あぁ、今年も、紫陽花が美しい季節がやってくるのですね。嬉しい。
 そうだ、移ろいやすいのはね、あの方にそっくりなんですよ。どんよりと暗い道を、彩るところも。それはそれは、とっても。
 この世にはね、あの方をちっとも感じない。色濃く、鮮明に、等しく皆の人生の一部になっているのに。信じ難い。私は、この先もずっと、忘れやしませんよ。この夏は、会いにゆくつもりです。どうか、拒まないでいただけたら。
 いくらか空が鮮明な色にかわったので、まもなく街が目覚めるんだと気が付きました。通勤中のサラリーマンに、大きなキャリーケースを手に早足で歩く女性。他にも数人の人と、まばらにすれ違います。たくさんの人生が続いてる。それを、強く実感します。私も、皆の人生の欠片として、生きていくのでしょうね。
 近くの八百屋に寄って、ポケットに入れていた三〇〇円で桜桃をひとパック買い、それから家に帰りました。

第二章 靉靆


 六月にしては、よく晴れた日のことです。今日は、あの方に会いにゆくつもりです。新幹線に揺られて、京都を発つ。足が落ち着かない。窓と手元を交互に見ては、ため息をついていました。何本か電車を乗り継いで、ようやく目的地の最寄り駅につきました。
 同じ空気を身に纏わせて、ゆらりゆらりと裾を揺らす。商店街の中をしばらく歩きます。もう、ひどく辛い。姿は、随分、変わっているのでしょうね。突き当りを左に曲がると、さらさらと穏やかに流れる水の音が聴こえました。思わず駆け寄ってみると、どうやらここは目的地だったらしいのです。
 「こんなふうだったのね」
そう思って、古い写真と見比べました。川沿いをゆっくりと歩いてゆく。知ってはいたのですけれども、実際の姿を見れば、やはり、たくさんのことを感じる。かつては、急流だと聞いていました。そんな姿は、微塵も想像できやしませんので、なんだか切ない。
 「そうか、ここが」と思う度に、溜息がこぼれ落ちる。青空を見上げます。いやに眩しい。じんわりとした、夏の暑さがこびりついてくる。
 私はね、ずっと、不思議なんです。あの方と同じ空の下にいたはずなのだけれど、どうも、そんなふうには思えないのですよ。本当は、架空の人物で、同じ体温を持っているわけではないのかもしれない、だとか。あるいは、私がこの地に立ったから、あの方はこの地を発ったのかも、とそんなふうにさえ考えるのです。
 この川を見つけたときに、もう、だめだと思ったんです。私には、無理だと。心臓が止まっても、あの方には会えないのだと。確信してしまいましたので、ぱらぱらと宝石の屑が、溢れて落ちる。とくとく、と早く心臓が動いて、頭まで血が上る。
 こんなときに、いつも思うのです。悲しいなんて言葉が、この荷に耐えられるのかしら。辛いなんて言葉で、私の、この気持ちなどが、と。きっとね、言葉なんかでは、だめなんです。この絶望と、悲しさと、虚しさと、その他、すべて。例えば、愛、なんて言葉で表現すればどうでしょう。なんだか、陳腐でしょう。あぁ、けれど、愛というのは、いい得て妙かもしれない。
 私の好みも、私が在る理由も、全部、託してしまいました。涙が止まらないのは、一体、いつまでなんでしょうか。ふらふらとして、生きた心地がしないのは、もう受け入れてもよいのでしょうか。私が、あの方に会うのを堪えるのは、やはりつまらない文章を、二七四作書くまででしょうか。
 真っ直ぐ、遠くまで流れる上水を見つめます。陽の光を受けてきらきらと輝いている。もう、ここでは死ねないわ。私には、綺麗すぎるのです。
 「会いたい」
 細く細く、そう呟いて、それから家に帰りました。


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