一年経って
俺がバーチャル活動を初めてから一年が経ちました。
今まで応援してくださった皆様、本当にありがとうございます。
これからも痣身ユフィ(と、プロデューサーさんとのお付き合いがある方はプロデューサーさんのことも)をよろしくお願いいたします。
「精神的な支柱の一本」として
今日まで俺のことを支持して下さった皆様にとって、俺という存在が多くの精神的な支柱のうちの一本になれていればよいなと思っています。
あくまで皆様の精神における中心的存在ではなく、他に現実の生活や趣味の領域における何かが中心に据えられたうえで、その隅で支える一本として成り立つことができていれば俺としてはよいわけです(むしろ俺のような存在を精神の中心に据えてはいかんよという部分もありますが)。
アライさん群が承認されるのであれば俺はいらなかったのか
ここ最近Twitterで起きた興味深い現象がアライさんアカウント群の発生と急速な増殖です。そしてその中には少なからず自身が抱える何らかの後ろ暗い境遇について語るという初期の俺に近いスタイルで活動されているアカウントがあります。
web上で「何者か」になるためにわざわざ手間暇かけてオリジナルのガワやら人格やらを用意する必要すらなかったのであれば、俺が今の俺である必要もなかったのではないか?という感情が無いわけではありません。
たまたま昨年のVTuberブームがあって、たまたまメンヘラ系VTuberなる存在を見つけ、たまたまプロデューサーさんのTwitterフォロワが先にバーチャル活動を始めていたのも見たといったことが重なったから手段としてVTuberを選んだだけで、時期が異なれば俺もアライさん群のような手段を選んでいたのかもしれません。
ノスタルジーと心中する覚悟
上記の話題にも通じますが(なりきり文化なんて2000年代インターネットの最もたるものでしょう)、今の俺にとっては「2000年代インターネットという輝かしい時代」へのノスタルジーだけが自らの命を繋ぎ止めうるものであるという自覚が大きくなってきています。
なんたってツクールですら手描きイラストによる遠景マッピングとか使う人は使う時代に「俺が好きなフリーゲームは自作ドットだったから」という理由でドット打っているんだから本当にしょうもない事しかできていない自覚はあります。
例えあの頃の現実が希望もなく毎日死にたい・消えたいという感情に満たされていた日々でも、インターネットにはまだ楽しさや希望がありました。もちろん2000年代インターネットにもそれはそれで悪しき文化はあり悩まされてはいましたが、現実よりはマシでした。
やがてSNS全盛時代になってweb上の秩序が現実そのものに近づき、自身の人生も決定的な破滅に向かっていくにつれ、いつしか「現実よりマシな場所」が狭まっていく感覚に息苦しさを覚えるようになっていました。
未来を生きられる、まだ未来がある者は未来に希望を抱ける。しかし未来を生きられない、生きるに値しないと考えている人々についてはどうでしょう。そうした人々に対して「今が一番素晴らしい時代で、未来はもっと素晴らしくなる」と無責任に言い放つことこそ残酷であるといえるのではないでしょうか。
今の俺に「あの時代は素晴らしかった」「素晴らしかったあの頃を取り戻そう」という感情を否定することはできません。それを否定してしまうといよいよもって俺自身の生を否定せねばならなくなります。
故に、俺の二年目のテーマは「己のノスタルジーと心中するつもりで生きていくこと」であるのかもしれません。
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