シアターストーカー
すなわちシアターストーカーは演劇関係者なのである。
1. シアターストーカー
演劇には、作家/コレクターという関係がない。演劇鑑賞者のほとんどは演劇をやっている人間である。
「横のつながり」とかいう軽薄な仲良しこよしは、作家としての思想信条がなくとも行われるし、友情ごっこで他者は守れない。
しかし「横のつながり」というものを、考えなしにあしらうことはできない。自らの作品を観てもらえなくなってしまうからである。
飲み会だとか、ワークショップだとか、そういうところで獲得した別劇団の人間との関わりを蔑ろにしてはいけないのだ。
しかしそれは、若手芸術家がギャラリーストーカーに抱く恐れと同じである。すなわち、関係性を断つことは、観客と収益と未来を失うことになるからだ。
その演劇関係者にキャリアがあるのなら、尚更断れないことだ。もしくは、学生演劇時代の先輩後輩関係、上下関係の残り火が燻っているかもしれない。
多くの若手演劇人は自立できるほどの力を持っていない。演劇を仕事にできるほど運の良い人もそういない。だから、人脈という不確かなものに縋る。
一度縋った藁を手放すことは、自分の夢を手放すことを含意する。少なくとも、力がないあいだは。
力とは暴力であり、財力であり、集客力であり、影響力だ。
弱者は、望む望まざるにかかわらず、はじめは力に縋って生きる。自立とは、その力のうちのいずれかを手にすることだ。力のあるシアターストーカーがちらつかせる餌とは、力のない若手の芸術家にとって、喉から手が出るほどに欲しい機会だ。売れるために、彼らはシアターストーカーにすら手をのばす。
しかし、その餌を食わせてもらえる保証はない。加害者が欲しいのは、被害者の芸術的成功ではなく、被害者の属性であるからだ。むしろ、被害者が評価を得て、自分を追い越しては意味がないと考えている。
支配欲ほど凄まじい悪意はない。
力に迫られたら、力なしに逃げることができない。そして多くの被害者は「力さえあれば」と涙を呑む。その意味で、加害者は弱者を愛する。
美術史に限らず、歴史は、偏った状態を自然としてきた。歪みをもった螺旋である歴史は、今もまだ続いている。
歴史は、いくつかのある属性に対して、我慢を要請してきた。我慢は感覚を麻痺させ、現状の認識をあいまいにさせる。自分が被害者であることにも気付かない被害者も多い。
「そんなもんか」と流されてきた慣習が、外部から見れば、おぞましい因習であった──ということは、因習村の民俗ホラーでなくとも、よくあることだろう。
被害者を被害者と気付けるのは、外部の人間であることも多い。
それに私は怪物だから、怪物が欲しがる獲物のにおいが分かるのだ。
2. まもる怪物
筆者は劇団の主宰をやっている。力はない。影響力もない。しめやかな反抗心と浅はかなプライドは持ち合わせている。そして責任がある。
これは自己矛盾である。自己矛盾であると承知しているが、私はハラスメントを嫌悪し、憎悪し、吐き気さえ催している。
私が、弁護士や国家資格をもった知識人や聖人であったなら、もっと明確で有効な護り人となれただろう。
しかし私が私である限り、私は排斥される側の存在としてその瞳にうつるのだ!
私が私でなかったなら、彼女らに対して、よりよい理解者であれたかもしれない。私が私でなかったなら、私は彼ら彼女らに対して、有力な協力者になれたかもしれない。
私は怪物だ。
しかし、怪物だからといって、守護と責任を放棄してはならないとも思っている。私が無自覚な罪を憎まなければ、誰が憎めるというのか。
たしかに、彼女らは唯一無二の自立した人格を持ち合わせている。自分の人生を自ら決定できる理性を有している。しかし、被害を被害だと認識していなければ、始末できるものも始末できない。先述の通り、歴史の要請は被害者に認知の歪みをもたらしているからだ。
私の責任は自意識過剰の怪物である。私は単に、誰かがシアターストーカーに遭っている事実がとてつもなく嫌だからそれを憎み、排除し、私の安寧を保ちたいと思っている節がある。
そう、私の安寧なのだ。彼女らが被害者でないことは、他ならぬ私の安寧なのだ。浅はかさがまた怪物である。
私が防衛策に出たら、今まで築いてきた関係や、今後得られるであろう恩恵を失ってしまうかもしれない。
けれど、それでもいい。
とどのつまりは怪物だからだ。この私は望まれない。
この怪物に何ができる?
3. きえないハラスメント
「ギャラリーストーカー」という言葉が話題になったので、シアターストーカーは安堵した。
東京藝術大学でも昔から相当な問題を抱えていたようだし、今年2月には、卒業展に際しギャラリーストーカーへの対策を求めるような署名活動が行われていた(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/gallery-stalker-news-202402)。
この署名活動ですべてのギャラリーストーカーが消滅するなら世話ない。このような活動を行うことは大事である、という事実と、無自覚な悪意はこのような活動では消滅しない、という事実は、悲しいかな両立する。うざったいほどに両立する。
ギャラリーストーカーばかり取り上げられれば、シアターストーカーは安心する。そして、シアターストーカーでないハラスメント為政者は、安堵も心配もなく、ただ変わらない日常を過ごしている。
為政者は、芸術こそがあらゆる人倫や法に勝ると思っているので、平気で人を言葉で殴り、猥雑な台詞を書き、女優の衣服を奪い、肉たる身体を掌に収めようとする。ハラスメントや社会問題を描いたかと思えば、90年代の解像度で世間を見通した気になっている。そんな軽薄な作品には憤りすら感じる。
彼らは芸術の何たるかをその袖の端すら掴めていないくせに、「無知の知」すら無知であり、自らが芸術の神アポロンの巫女であるかのように振る舞う。
そういう輩が支配しているのが、せまいせまい芸術の世界だ。そしてその歴史だ。
多くの弱者は、自分の未来のためだと思って、力に屈してきた。だが、多くの実例が示している通り、戦術的無抵抗では、夢は叶えられない。それは悪徳の栄えを支援することでしかないのだ。
為政者を支えているのはわれわれである。われわれが力の恵みに甘んじている限り、ハラスメントが消えることはない。
すなわち、螺旋を断つ必要がある。シアターストーカーを、ハラスメントを、嫌悪し、排除し、告発しなければならない。
だが現実がそれを邪魔する。社会の構造が歪みを保ったままだからだ。力のない若手が声を挙げれば──多くの加害者の常套句だが──もうこの狭い世界では生きていけない、とそう思ってしまうからだ。人間関係とは実に煩わしい。
しかし私は怪物だ。
この怪物に何ができる?
自己矛盾の怪物は、ざらついた舌で牙を舐め、反撃の機会をうかがっている。
2024年5月11日 薊詩乃
参考