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自死について物語るときに私の語ること
タムケ=ハナムケ
私、薊詩乃が主宰している劇団「るるいえのはこにわ」は、
2024年9月14日~15日、大阪の扇町ミュージアムキューブにて、
自死についての短編2作品を上演します。
公演タイトル『タムケ=ハナムケ』は、
「タムケ イコール ハナムケ」 と読みます。
死者への手向けと、
生者への餞は、
同じことなのではないか……という考えをタイトルに反映しています。
自死(自殺)というものは、 生きた人間による行為です。
希死念慮を抱く人は、生と死の狭間、微妙なバランスの中で生きています。 その天秤が、どちらかに傾くだけなのです。
ではその分銅を乗せたのは誰でしょうか。
きっと、その人自身ではないはずです。
生きるとは、自分ひとりだけで成し遂げることができないからです。
ならば死ぬことも同じ──自死ですら、自分ひとりだけで完結する行為ではないはずです。
ですから、手向けと餞は同じなのです。
それは、悪辣な最後の一撃という意味でもそうでしょうし、
友愛や哀しみによる純粋な祈りという意味でもそうでしょう。
今作を通して、生きている自分や、生きている誰かや、
死んでしまいたい自分や、死んでしまった誰かについて、
再考してほしいのです。
今公演は、自死を肯定したり、礼賛したり、美化したり、推奨したり、幇助したりするものではありません。
公演期間は、厚生労働省の定めた、「自殺防止週間」の中にあります。
この公演を機に、自分や、誰かの、生きることと死ぬことについて、新たに考えていただければと思い、公演を企画しました。
しかし、テーマがテーマですから、 考えることが苦しいというのも一つの真実であると思います。
そうならないよう、生々しい、直接的な表現はしないよう、「表現の自由」とは別軸で考えて創作して参りますが、ご観劇の際は、ご留意いただきますようお願いいたします。
あの日間違った全ての僕に
短編2作品のうち、薊詩乃は、
「あの日間違った全ての僕に」 という物語を上演します。
“祈り”がキーワードの作品です。
薊詩乃は各所で「人間ではない」ということをお伝えしておりますが、
それは「人でなし」だからです。
人でなしですから人間でなくなったのです。
そんな薊詩乃が、自死について物語ることは正しいことでしょうか?
これまで紡いできた私の物語以上に、この問いは私を怒鳴りつけ、釘を打ち、縛りつけました。
悩んだ末に、それでも物語らなくてはならないのだと思い至りました。
それでも私は“祈り”を続けなくてはならないのだと。
それが間違った結論でも、私は祈らねばならないのです。
人間ではない私が死ぬのはどうでもよいことです──この表現自体の危うさはさておき。
私にとって大切なのは、人間である他の誰か、私を呪う誰か、私を忘れた誰か、私を知らない誰か──そのすべてのために“祈り”を捧げることでした。
この物語は、題が示す通り、「あの日間違った全ての僕に」捧げる物語です。
ご承知の通り、この世のすべての物語は、あなたのために存在します。
ですから「僕」とはあなたです。
間違ったことがなくても。
これは祈りの物語です。
そして呪いの物語です。
私の罪を赦さないまま、誰かが生きるための物語です。
2024年7月2日 薊詩乃
※これは、7月1日にXに投稿した文章ををまとめたものです。