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まほろば

春日山から飛火野にかけて、夕暮れの柔らかな光が大地を染めていた。鹿たちの姿が木々の間をゆらゆらと揺れながら見え隠れし、穏やかな風が草を揺らしていた。静かな風景が広がる中で、僕たちの心には複雑な感情が押し寄せていた。

彼女は足元のぬかるみを気にして、慎重に歩を進めていた。泥に足を取られることが気になっているわけではなく、目の前の現実が重たく感じられ、その一歩一歩が不安に満ちているように見えた。

僕は彼女の隣を歩きながら、ずっと遠くの空を見つめていた。僕の頭の中には、まだ見ぬ未来が広がっていて、それが何か重要なもののように感じられていた。しかし、その未来を追い求める視線が、彼女との間に見えない距離を作り出していることに、僕は気づいていなかった。

「君は足元ばかり気にしているね」と、僕は何気なく言った。彼女は少し困ったような表情を浮かべて、視線を下に向けた。「私は、ただ、この先どうなるかが怖いだけ」と、彼女は小さく呟いた。未来を想像することができず、今この瞬間をどうにか保とうとしている彼女にとって、僕の言葉は重たかったのかもしれない。

僕たちの手はしっかりと繋がれていたが、そのぬくもりはどこか虚ろだった。歩みを進めるたびに、僕たちの間に広がる無言の重圧が増していくのが分かった。お互いが感じている別れの兆しを、口に出す勇気はどちらにもなかった。ただ、足元と遠い未来を見つめ続ける時間が、二人を覆っていた。

「僕たち、このままどうなってしまうんだろう?」僕はふと呟いた。「未来を見据える僕と、足元に囚われている君。僕たちはどこへ向かっているんだろう?」

彼女はその問いに答えることができなかった。ただ、僕の手を強く握り直した。彼女の心の中では、不安と恐怖が渦巻いているのが分かったが、僕を手放すことが何より怖いのだろう。それが伝わってくるからこそ、僕も何も言えなかった。

遠くから鹿の鳴き声が響き渡り、風が彼女の黒髪をそっと揺らした。彼女は微笑みながら、「黒髪に霜が降りるまで、あなたを待てるわ」と言ったが、その笑顔には空虚さが漂っていた。それはまるで、宛名のない手紙のような言葉だった。

二人を繋ぐ細い糸は、まるで蜘蛛の糸のように今にも切れそうだった。「君を捨てるか、僕が消えるか。どちらかしかないのかもしれない」と僕は思ったが、そんなことを口にする勇気はなかった。いっそ二人で全てを終わらせてしまった方が楽だと思う瞬間もあったが、その選択すらできなかった。

日は沈み、夜の帳が静かに降り始めた。空には満月が浮かび、澄んだ光が僕たちを優しく包んでいた。その瞬間だけ、すべてのことが一時的に止まっているように感じた。

この夜が終わり、また朝が来たら、僕たちはそれぞれの道を歩き始めるのだろう。未来がどうなるのかは、もう分からなかった。ただ、今は満月の光の下で、二人が同じ場所にいるということだけが、わずかな救いだった。

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