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ソマチックハルシネーションズ「触覚の囚人」

都心の高層マンション、その一室で男が冷たい床に横たわっていた。彼の名前は藤堂遼。警察が駆けつけたとき、部屋の中には異様な雰囲気が漂っていた。テーブルには未完成のメモが残されていた。


『助けてくれ。体の中に何かがいる。』

刑事の北川は、そのメモを見つめて眉をひそめた。部屋には争った形跡がなく、遺体にも外傷がない。だが、藤堂の顔には凄まじい恐怖の表情が残っていた。

「体の中に何かがいる……か。これってどういう意味だ?」
若い部下の吉田がつぶやいた。北川は部屋を見回しながら答えた。
「わからん。ただの妄想か、それとも本当に何か異常があったのか……解剖結果を待つしかないな。」


翌日、法医学者の報告が届いた。死因は心不全。しかし、体内には異常が見つからなかった。毒物反応もなし。
「まるで突然恐怖で心臓が止まったみたいだな。」
北川は報告書を読みながら考え込んだ。メモの内容と死因の不可解さがどうしても引っかかる。

捜査を進めるうち、藤堂が数ヶ月前から精神科に通っていたことが判明した。北川は担当医の元を訪ねることにした。


診察室で医師の須藤は静かに語った。
「藤堂さんは『ソマチックハルシネーションズ』という症状に悩まされていました。体感幻覚といって、存在しないものを体で感じてしまうんです。」
「具体的にはどんな感覚ですか?」
「彼の場合、『体内を虫が這う』という感覚が典型的でした。もちろん実際に虫がいるわけではありません。ただ、感覚は非常にリアルで、本人にとっては現実そのものなんです。」

北川はその説明を聞きながら、藤堂の残したメモを思い出した。「体の中に何かがいる」という言葉は、幻覚の影響だったのだろうか?だが、それが本当に心臓を止めるほどの恐怖を引き起こしたのか?

須藤は続けた。
「藤堂さんは症状が悪化して、だんだん自分の体を信じられなくなっていました。『本当に虫がいるのかもしれない』と言い始め、診察中もずっと腕を引っ掻いていました。」


その夜、北川は自宅でメモを読み返していた。何かが引っかかるが、言葉にはできない。藤堂の最後の瞬間を考えると、不安な気持ちが胸を締め付ける。

ふと、北川の手首に違和感が走った。軽い痒みとともに、何かが動くような感覚がある。思わず袖をまくるが、当然そこには何もいない。

「気のせいか……」

だが、その感覚は次第に強くなり、腕全体に広がった。まるで小さな虫が皮膚の下を這っているようだ。北川は動揺し、立ち上がった。鏡を見ると、そこに立っている自分の顔が異様に歪んで見えた。

その瞬間、彼は藤堂の残したメモの意味を直感的に理解した。
「これは……俺の体にも……何かが……」


翌朝、北川は自宅で倒れているところを発見された。顔には藤堂と同じ恐怖の表情が刻まれていた。

調査を引き継いだ吉田は、藤堂と北川の共通点に気づいた。二人とも、最後に触れていたのは同じメモだった。吉田は慎重にそのメモを調べ始める。

だが、その夜、吉田もまた、手首の違和感を感じ始めるのだった。


ソマチックハルシネーションズ(Somatic Hallucinations)とは?

ソマチックハルシネーションズは、体感幻覚とも呼ばれる精神症状の一つで、実際には存在しない身体的な感覚をリアルに感じる状態を指します。この感覚は患者にとって非常に現実的であり、苦痛を伴うことが多いです。

主な特徴
1. 感覚の内容:
• 皮膚の下に虫が這っている感覚(虫感症とも呼ばれる)。
• 体内に異物がある、または動いているように感じる。
• 電流が流れている、焼けるような熱さを感じる。
• 針で刺されるような痛みや圧迫感。
2. リアリティの強さ:
• 感覚は非常にリアルで、患者本人は「本当に起きている」と確信しています。
• 医師や周囲の人が「それは幻覚だ」と説明しても納得できないことが多い。
3. 影響を受ける部位:
• 特定の部位に限定される場合もあれば、全身に広がる場合もあります。

原因

ソマチックハルシネーションズは、身体と心の境界に異常が生じることで発生すると考えられています。主な原因は以下の通りです。
1. 精神疾患:
• 統合失調症: 妄想や他の種類の幻覚(視覚・聴覚)とともに現れることがあります。
• 身体表現性障害: 身体の不調を過剰に意識する中で幻覚が現れる場合。
• 重度のうつ病や不安障害でも稀に出現することがあります。
2. 神経疾患:
• パーキンソン病やアルツハイマー病: 中枢神経系の変性によるもの。
• てんかん: 発作に関連して一時的に体感幻覚が生じる場合があります。
3. 薬物や物質の影響:
• 薬物乱用(覚醒剤、コカインなど)。
• 副作用としての幻覚(抗うつ薬や抗精神病薬の一部で報告あり)。
4. その他の要因:
• 慢性的なストレスやトラウマ。
• 睡眠不足: 極度の睡眠不足が幻覚を誘発することがあります。

診断方法
1. 問診: 症状の詳細や、いつどのように始まったかを確認します。
2. 身体検査: 実際に身体的な異常がないかを確認します。
3. 精神評価: 他の精神疾患(統合失調症、うつ病など)の有無を調べます。
4. 神経学的検査: 神経疾患を除外するためにMRIやCTなどを使用する場合があります。

治療

ソマチックハルシネーションズの治療は、原因となっている疾患や状態に応じて異なります。
1. 薬物療法:
• 抗精神病薬: 幻覚や妄想を軽減するために使用。
• 抗不安薬: 不安や緊張を和らげる。
• 抗てんかん薬: てんかんが原因の場合。
2. 心理療法:
• 認知行動療法(CBT): 幻覚に対する考え方や反応を修正する。
• トラウマ療法: ストレスや過去の体験が関与している場合。
3. 生活習慣の改善:
• 十分な睡眠やストレス管理。
• 禁煙、禁酒、薬物の使用を避ける。
4. 神経調整療法:
• てんかんや神経疾患が原因の場合、適切な神経治療が必要。

患者が直面する課題
• 周囲の無理解: 「幻覚」と聞くと、本人の感覚が否定されているように感じるため、孤立しやすい。
• 適切な診断までの遅れ: 症状が珍しく、他の疾患と混同されやすい。
• 生活への影響: 感覚が強い場合、日常生活に支障をきたす。

周囲ができること
1. 感覚のリアルさを否定せず、患者の話を聞く。
2. 病気に関する知識を深める。
3. 必要に応じて専門医に相談することを勧める。

ソマチックハルシネーションズは非常に珍しい症状ですが、適切な治療と支援によって改善することが可能です。

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