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檸檬
初夏の陽射しが優しく降り注ぐ湯島聖堂の白い石階段に、彼女は静かに腰を下ろした。彼女の細い手には、鮮やかな黄色の檸檬が握られている。その姿はまるで、過ぎ去りし青春の輝きをそっと掌に閉じ込めているかのようだった。
彼は彼女の隣に座り、その姿をじっと見つめていた。彼女が檸檬を高く掲げると、陽の光が透けて檸檬の果皮が金色に輝き、青い空と絶妙なコントラストを描き出した。「きれいね」と彼女はつぶやき、微笑んだ後で、檸檬にかぶりついた。酸味が彼女の表情をわずかに歪ませ、だがその表情は何か懐かしさと切なさが入り混じったようなものだった。
「この町も、私たちの青春も、まるで使い捨てのように感じるの」と、彼女は突然言い放った。彼は驚いたが、その言葉の背後にある感情が、彼女の瞳の奥で揺れているのを感じ取った。
その後、彼女は静かに立ち上がり、半分齧った檸檬を聖橋から放り投げた。檸檬は空を舞い、下を走る快速電車の赤い色とすれ違いながら、川面へと落ちていった。彼女の視線は、その波紋が広がる様子をじっと見つめていた。
「捨て去る時には、こうして出来るだけ遠くへ投げ上げるのよ」と彼女は言った。その言葉には、何かを終わらせる覚悟のようなものが感じられた。
しばらくして、二人は聖橋を後にし、スクランブル交差点へと向かった。彼女は人混みの中で、ふと立ち止まり、涙ぐんでいた。「この町は、まるで青春たちの姥捨山みたいだわ」と彼女は呟いた。彼女の声には、もう戻ることのできない過去への哀惜が滲んでいた。
彼は、彼女の心の中に渦巻く感情を理解しようと努力したが、言葉が出てこなかった。ただ、彼女が言う通り、二人の青春がこの町に使い捨てられてしまったかのように感じていた。
「夢も同じよね」と彼女は再び聖橋の上に戻り、今度は心の中の何かを放り投げるように、空を見上げた。その瞳に浮かぶ涙は、まるで一つ一つの夢が壊れていく瞬間を映し出しているかのようだった。
「消え去る時には、こうしてあっけなく、静かに堕ちてゆくものよ」と彼女は最後に言い、もう一度空を見上げた。その言葉は、彼女自身にも彼にも、痛烈な現実を突きつけるものだった。
二人はしばらく黙って立っていたが、やがて彼女はゆっくりと歩き出した。彼はその背中を見送りながら、自分の心にも何かが静かに堕ちていくのを感じた。檸檬のように鮮やかで、しかし儚いその記憶が、二人の間に薄い影を残していた。