お前の家
雨が上がり、静かになった街を歩きながら、ふと彼の家を訪ねたい気持ちが湧いた。理由はよく分からない。ただ、なんとなく、しばらく顔を合わせていない彼の姿を見たくなった。
玄関先に立つと、昔よく訪れていた家の雰囲気がどこか変わっていることに気づいた。時間が経っているのだから当たり前かもしれないが、それでも違和感があった。ドアをノックすると、すぐに彼が現れた。しかし、その姿はどこか以前とは違う。髪型が変わり、背後からは彼が以前は絶対に聴かなかったような音楽が、やけに大きく流れていた。
「よぉ、久しぶり」と彼が少しぎこちなく言ったが、その表情にはかつての彼らしさが欠けている。
「久しぶりだな」と返しながら、目の前の彼の変わりように言葉を失った。
部屋に入ると、昔飼っていたはずの猫がいない代わりに、黒い猫が静かにソファで丸くなっていた。ふと、気づいたように口を開く。「昔の猫、黒じゃなかったよな?それに髪型も…」言葉に詰まったが、指摘することに何の意味があるのか分からなかった。
「まぁ、今のほうが似合ってるのかもしれないけどさ…」そう言いかけたが、彼がどう反応するかが怖くて言葉を飲み込んだ。
二人とも、特に話すこともなくキッチンに移動した。青い火が静かにお湯を沸かしている。「何か飲むか?」彼がぽつりと聞いた。だが、その声には昔のような親しみはなく、距離感を感じさせるものだった。
「コーヒーでいいよ」と返すが、言葉以上の会話はなく、二人はただ無言のまま火を見つめた。
沈黙を破ろうと、昔よく一緒に聴いていた音楽の話を持ち出した。「あいつの新しいレコード、聴いたか?」少し無理に明るく話しかけた。すると彼はふと目を伏せ、目に涙が浮かんでいることに気づいた。
「ギター、やめたんだよ。もう、食っていけなくてな」彼がそう言った時、彼の手は静かに膝の上で握りしめられていた。彼にとってギターは生き甲斐だったはずだ。それを手放したことが、どれほど彼にとって辛かったか、その一言で全てが伝わってきた。
部屋の隅には黒い皮靴が一つ、無造作に置かれている。その靴はまるで「お先に休ませてもらうよ」とでも言うようにくたびれていた。お湯の沸く音が突然部屋に響き、彼は気づいたように笑顔を見せた。その笑顔は、どこか作り物のようで、昔の彼とは違う。
ふと、タンスに立てかけられたギターに目が留まった。以前の彼なら、こんなに丁寧に磨いたギターなんて見たことがなかった。彼は自由に弾いて、音楽と一体になっていた。あの頃の彼が、この部屋に残っているのかさえ分からない。
「そろそろ行かないと」と立ち上がり、彼の目を見ることなく言葉を続けた。「また今度、来るよ」
「そうか。いつでも来てくれよ」その瞬間、彼の表情が一瞬だけ昔の彼に戻った。懐かしさが胸をよぎったが、それも一瞬のことだった。
家を出て、コートの襟を立てながら歩き出すと、冷たい風が頬に触れ、指先まで冷たくなった。仕事場に向かいながら、ふと考えた。今夜、どんなに明るいメロディを弾いても、ギターからは湿った音しか出てこないだろうと。
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