『研ナオコは言い訳させてくれない』
日本で一番歌がうまいのは玉置浩二と言っても誰も否定しないし、できないと思うんだけども。
若いころは、ガツンと高いサビが歌えたりすることが“歌のうまさ”だと勘違いしていたと思うし、男性ではそういう人が多かったと思う。
でもある程度大人になってくると、それがいかに表面的であさはかな思い違いであるかがわかってくる。
本当にうまい人は、サビはもちろん最高にうまいし、パワフルに歌いきれる歌唱力もあるんだけど。Aメロ。出だし。声を張らないパートと言い換えてもいいけれど、そこの情報量とかうまみとか、小さい声だとごまかせない存在感とか、そこでもう勝負が決まっちゃう。たいていの人はただ小さくて、存在感が希薄になって、早くサビに入らないかなあと観客を飽きさせてしまう。
そこがプロとアマチュアとの差かもしれない。その線引きは昔よりあやふやになってきているかもしれないけれど、プロはとにもかくにも、最初っから別の世界、その人が持っている空間世界にふわっと連れて行ってくれる。声が小さいとか関係なく、ぐっとつかまれてしまう。
ものまねグランプリで優勝常連の青木隆治の美空ひばりは確かにうまい。最近磨きがかかってきているかもしれないが、青木隆治のお父さんの美空ひばりを聞いてきてる僕にとっては、まだまだうすっぺらで表面的といわざるをえない。
うまいのよ、ピッチもリズムも表現力もある。うまいんだけど、うまいだけなの。でも彼のお父さんのものまねは、なんていうか、もう、物まねだけど物まねじゃないのね。たましひが震えるっていうか。ひばりのそれに疑似的に本当に触れられたような、たましひを鷲掴みにされるような衝撃と感動。それはもうなんなら、歌う前の立ち姿からしてぐっとくるし、入ってくるし、きちゃうのだ。
(閑話休題)
たしか研ナオコが審査員してて、青木隆治に、うまいけど、うまいだけ、って言ったようなんだけども、その辺の記憶はさだかじゃないからスルーするとして、研ナオコはそれを言っていい、っていうか、いってくれてありがとうって思った。自分もずっとそう思ってきたから、よくぞ言ってくれたと。
なんで研ナオコがそれを言っていいかっていうと(研さん、便宜上なんか上からですみません!大先輩に詫びつつ行かせてもらいますが)、研ナオコの「かもめはかもめ」とか有名だからみんなも聞いたことあると思うんだけど、あれの冒頭なんて、もう何言ってるかわからないくらいぼそぼそ歌ってるのよ。だけど、いいの! それがもう、それしかないっていう雰囲気で、ぐっと引き込まれる。声が小さいからとか関係ない存在感。あれが本物が持っている“うまさの向こう側”だと思う。
それでいうと「あばよ」もそう。ぜんぜん力みのないAメロでもうメロメロ。研ナオコという女がもっている世界観の哀愁に引きずり込まれる。本当にうまい人は、サビだけがガツンとしてるんじゃなくて、一曲全体が、一匹のけものみたいに有機的に結ばれあってウォンウォン鳴いてうごめいている。最初から最後まで。歩き初めから躍動するサビまでどこを切っても血が出るようになってる。そういうことなのだ。
彼女に歌われることで、まるでダルマに目が入ったようにそこに生き生きとしたケモノのたましひが宿る。瞬間、歌に彼女の人生と同じくらいの奥行きがつく。あたしが欲しいのは、“うまさの向こう側”なんだ。
死ぬ気で生きて、豊かなたましひになりたい。
だからあたしは、ここにいる。