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東京路地紀行 19 渋谷区道玄坂

10月もそろそろ終わり。初旬の頃はまだ暑い日々が続き、中旬頃やっと金木犀の甘い香りが町を覆い、秋が本格化しはじめたなと思っていたらもう月末。10月の終わりといえばここ数年ですっかり日本にも定着した感のあるハロウィンイベント。
今回ご案内する渋谷といえば、ただでさえ人が多いのにハロウィンなどイベントがあれば人口は数倍増となる街。その渋谷の中心にありながら忘れられたような場所の断崖絶壁の路地を歩きます。

左手の薄緑色の手すりの向こうが崖

渋谷といえば若者の集まる街ですが、街としての歴史は明治時代以降につくられてきました。江戸時代は農村だった渋谷は、明治維新後、江戸改め東京の人口が増えていく過程で郊外住宅地として拓けていきました。さらに産業の近代化とともに進行した軍の近代化・増強の過程で、街の発展にはずみがつきます。当時陸軍の聯隊(連隊)駐屯地として選ばれたのが六本木、赤坂界隈。そしてその陸軍の演習場として選ばれたのが今の代々木公園からNHK放送センター、オリンピック施設のあるエリアでした。
兵たちは駐屯地と演習場を日々往復。そのルートは今の道でいえば、青山通りを出発して宮益坂を下り、スクランブル交差点で折れて公園通りを上って演習場に到着していました。大正9年(1920年)、明治神宮が完成すると神宮への参道である表参道がひかれ、陸軍演習場へのショートカットルートとなったのですが、それまでは直線距離では近いところを遠回りせざるをなかったのですね。

このように軍隊関連施設が近くにあり通り道になることで、将校や兵隊たちが寄る、休日遊びにくるなどで繁華街として栄える条件がそろいました。さらに駐屯地が近いことから渋谷は将校たちとその家族が居住する町ともなりました。このようにして道玄坂、円山町、神泉町といった地区に飲食店街が広がっていきました。特に円山町は、近くの神泉町に温泉が出ることから歓楽街としても発展し、三業地(*1)としても整備されていきました。
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が起きると東京の下町は揺れと火災の大被害を受けて壊滅的な状況。そこに目をつけたのが箱根土地(のちの国土計画、現コクド)の経営者、堤康次郎(*2)。道玄坂上の一帯を百軒店(ひゃっけんだな)街として開発し、震災被害を受けた日本橋、銀座の商店を誘致しました(*3)。

これらのことがあって道玄坂界隈は戦前から飲食店の集まった歓楽街として発展。それが戦後焼け跡から復興したあとも遊興の地の顔を持ち続けていた理由なのでしょう。

路地奥の店舗。かつでも3種類あります
崖上路地を奥へ進むと昭和感が強くなります

さて、この崖上路地について。
ここは店の裏側の抜け道、裏路地という感じです。
その路地を歩き、低い手すりから下を覗くとかなりの段差。どうしてこんなになっているのか?地元の方から聞いた話では、かつて道玄坂はもっと急な傾斜をもった坂でしたが、車や人々が日常的に通行できるよう傾斜を緩和するためにこの崖部分にあった土砂を使って坂をならしたためということでした。私のように街歩きのもの好き探検好き以外にはほぼ誰も通らない小径ですが、実は道玄坂が今のような繁華街になるのに重要な一役をかっていたのですね。

そんなことを頭の片隅におきながら歩いてみて感じること。ここって昭和後期(1980年代)が残っているな、この荒れ方、崖下の建物の屋根に投げ込まれた椅子、清潔感がないこの感じ、昔の繁華街ってこんなでしたね。

崖側(手前)から向かいの屋根に投げ込まれたと
思われるスツール状のもの、植木鉢。
数か月後に通ったときはなくなっていました
崖上から見た段差。かなり深い

時代は経て、街の中心は円山町、道玄坂からスクランブル交差点、センター街へと移り、さらにヒカリエなどの再開発地区を中心とした東口側へ移ろうとしています。時代に取り残されはじめているこのような場所に味のある空間が色濃く残っています。

ここまでは昼の顔。このあとは同じ崖上路地の夜の顔。

ここまで歩いてきた箇所を夜に歩きなおします
ここの路地内にある飲食店。
「chickenとりかつ」
何が食べられるのかわかりやすいネーミング
昼間の写真に載せましたが、
とんかつ定食、ハムかつ定食もあります


(*1)三業地
  置屋、小料理屋、待合の3つの業態がある遊興地のこと。
  置屋:芸者が属する事務所みたいなもの
  小料理屋:食事、飲み物を提供する
  待合:客と芸者が飲食・遊興する場を提供する
(*2)堤康次郎
  西武鉄道グループの創設者で、東急の創設者の五島慶太と
  並び称される戦前の実業家。
  箱根土地(会社)を使って都内各所での住宅開発を行ってきた。
  国立市の学園都市開発、目白の文化住宅分譲などが有名。
  鉄道、不動産、百貨店経営など多岐にわたる事業だが、
  住宅開発件数は多く、不動産事業が主軸だったかもしれないが、
  五島慶太の東急グループと比較すると西武グループは一体感が
  弱いと感じる。(個人的感想だが)  
(*3)百軒店
  震災直後は日本橋、銀座等から有名店が移転し開業したものの
  下町の復興が進むと、本来の開業地であった元の場所に
  戻ってしまった。その後は百軒店は庶民的な歓楽街に、
  戦後は円山町のホテル街へと変貌していった。


参考文献 「近代東京の地政学」 武田尚子著 吉川弘文館


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