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東京路地紀行 18 文京区西片

今回は、文京区西片の路地を訪問してみました。
ここはこれまでの路地とは少し異なり袋小路の路地です。
いや、袋小路というのともちょっと違うかもしれないですね。
見ての通り、小さいながらもコミュニティ空間を形成しています。

なぜこのようなコミュニティ空間が誕生したのか?

よぉ~く目を凝らして見ると、行き止まりになっている奥の塀はリアル煉瓦です。煉瓦塀!?いまでは耐震性の問題もあり、煉瓦塀は新築できないと聞いたことがあります。煉瓦の建物は明治期にはやり、その頃に造られた古い建物(洋館とか)、寺院にはよく見かけます。といっても煉瓦造りの建物をご覧になった方はお気づきと思いますが、誰もが建てられるものではありません。木造に比べたら費用がべらぼう!にかかるので、富裕層でなければできなかったでしょう。なので路地の仕切りのように煉瓦塀が使われているのが不思議です。
大きなお屋敷の敷地の一部だったのか?お屋敷のご主人がなにかしらの理由で長屋風住宅を建てて賃借人に提供していたとか、お屋敷がなにかしらの理由で売りに出されてその一部を買った誰かさんが長屋風賃貸住宅に生まれ変わらせたとか、想像すればキリがなさそう。

片側ずつじっくり見ます

片側4軒長屋の両側8軒の住宅があるようです。1階は大きくはかわっていないようですが、2階のバルコニーはさすがに木造とはいかないので金属製のものにリノベーションされています。足元は全舗装ではなく、石畳やコンクリートブロックが敷かれて歩く場所を確保しています。この長方形型の石畳が渋いし、懐かしいですね。子供の頃は路地の真ん中だけに敷かれたこういう小径で雨の日は両側の未舗装部は泥となりぬかるんでいるので必ず真ん中を歩いていましたっけ。

この長屋型路地は煉瓦塀があることから明治以降に誕生したと考えられますが、江戸時代の長屋路地の形を残しているのかもしれません。エピソード6に載せた樋口一葉旧居跡の本郷菊坂下の路地も同じように行き止まり型(正確にはあちらは階段を上って鐙坂に抜けられるのですが)で、江戸時代の長屋コミュニティ空間をそのまま残している印象でした。

路地奥の煉瓦塀

煉瓦塀に近づきます。煉瓦ブロックの長辺部分を組み合わせて積み上げているのでイギリス積みでしょうか。

※本題とははずれるどうでもいい話ですが、煉瓦の積み方にはもう一つフランス積みがあります。こちらは煉瓦ブロックの長辺と短辺を交互に組み合わせて積み上げていく工法です。煉瓦の塀や壁は表面には一列しか見えませんが、その背後で幾層にも煉瓦ブロックを組み合わせて構築しています。したがって長短長短の組み合わせ(フランス積み)のほうが長長長長(イギリス積み)よりも煉瓦同士の連結を強めて工法上は頑健なのかもしれません。
というどうでもいい閑話休題。

長屋路地の裏側に回り込んでみました。
こちらはさらに歴史を感じる風合いが出ています!
煉瓦塀は奥まで続いていますね。
そして緑の繁茂が素敵ですね!

西片ってなあに?

ところで路地から話は離れて「西片」、読みは「にしかた」。元々は本郷通りと本郷追分で分岐する中山道をはさんで東側を東片(ひがしかた)町、西側を西片町と名付けられていました。東片町はその後、向丘に町名変更され、西片だけが町名として今も残っています。


まだ都電が走っていた頃の住所表示板。
冷暖房完備は当時重要なキャッチコピーだったのですね。
そしてペットにも「お化粧も致します」⁉

西片は江戸時代には福山藩阿部家の中屋敷があった場所で、明治以降はその阿部家が南の端に邸宅を構えながら、高級住宅地として一帯の開発を進めたという一風変わった歴史をたどっています。しかしながら、1ディベロッパーが開発をしたことで規模が大きいにもかかわらず整合性のとれた、そして一軒一軒の住宅が個性あふれる住宅地区ができあがりました。そして今でもその雰囲気はしっかり残されています。

昭和初期くらいまでの地図を見ると、石坂(下の写真)を上がりきった先に阿部邸の印が付いています。つまり、この石坂の蛇行は邸宅へのアプローチの坂道でもあるわけです。邸宅の門をくぐるまで馬車または車でゆっくり坂道を上りながら近づく、そんな感じだったのでしょうか。

石坂
「阿部」の電信柱

※またまた閑話休題
東京の電信柱(以下、電柱)にはNTTのもの(上の写真)か東京電力が敷設したものが大半で、それらには1本1本を識別するために名前が付けられています。作業する人はこれを見て特定するのでしょうね。
付けられる名称はその場所の特徴あるものが使われることが多く、過去にあった建物とか、旧町名が付けられていることもよくあります。この電柱もその一つで阿部邸があったから「阿部」と…こういうのってその土地の歴史なりを知っている人でないと思いつかないですよね。ときどきなんでこのネーミングなの?というのがあります。歴史オタクでもマニアックでないと知らないような名称がついていたりと。ちなみに世田谷区代沢には「総理」と付けられた電柱があります。これはかつて池田勇人総理邸があったからなのですが、うん十年経っても残っています。実にマニアック。電柱を敷設する人も歴史の勉強をしているということですね(^-^;

まとめ(かなり話題が散ったけど)

さきほど石坂のことを書きましたが、西片町は大名屋敷にふさわしく、高台の上に建っています。隣り合っているのが白山の低地。両者の間は何か所かで坂道または階段でつながれています。坂道は急で道も広いのでおそらく明治以降に開削されたものかな。
新坂、または福山坂と呼ばれている坂道も大きくカーブして白山通りに向かって下りていきます。途中の擁壁の高さを見るに及んで、江戸時代の身分の違い=住む場所の違いに直結していたことがよくわかります。

新坂(福山坂)のカーブ

最後に、住宅が写りこんでいる写真は載せませんでしたが、大きな家もあれば、レトロな木造家屋あり。さまざまな家の並び。都内何か所も歩いていますが、いつ寄っても西片は楽しいです。ここに住めたら楽しそうだな、と思うそんな住宅街です。
あっ、後半は路地のことが全く語られていませんでしたね(^-^;

ということで西片に残る路地の思い出話でした。


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