「それ便座カバーだってば」と言う人になりたくない。
「たかが」から時間をかけて「されど」に至った人がひっそり大事にしてる部分に「たかが」派の人が踏み込んできて「たかがじゃんw」ていうのやだな。完全に例え話だけども。
自分なりの年月と関わりと思いでつくった小さい場所みたいなものは、なるべく同じ温度感の人にだけ見せるべきなのだと学んだ。
温度感違う人は「自分はオトナだからそういうの俯瞰で見えてるんで」って目線で見おろすか半笑いするかだけど、こちらもかなりいい年こいてるので、ビルの裏手に積み上がった粗大ゴミみたいな、または床下の汚い配管みたいなもののことは当然知ってるよ。その上で、私だけの大事な小さい場所があるんだよ。
こないだまで再放送していた坂元裕二さん脚本のドラマ「最高の離婚」で、灯里さんが密かに心の支えにしてた曲を光生が「何このくだらない歌。安っぽい、花柄の便座カバーみたいな音楽」って言い放ったエピソードがあったけど、それと似ている気がした。
灯里「別に誰かが悪いとかじゃないの。ただ、誰かにとって生きる力みたいになってるものが、誰かにとっては便座カバーみたいなものかもしれない。」
そう、他人にはそれが全然分からないし分からなくて当たり前なのだ。
でもふと自分を振り返った時、私もこれまでに光生みたいなことを誰かに言っていたかもしれないなと思った。「たかがw」とか「便座カバーw」とか、そういうことを。だとしたら全力で謝りたいし、誰かのそれを軽んじるつもりが全くなかったとしても、そう聞こえる物言いだったらやっぱり謝りたい。
自分はいっぱしである、世知に長けている、という思い上がりのもと、「この人あんま知らなそうだろうから教えてやるか」という姿勢になるとすべてが危ない。私は年齢と性格も相まってそうなりがちなので真面目に気をつけたいと思った。ひとの思いや話をもう少し丁寧に聞かなくちゃいけない。この年でマチュアを気取るのは相当恥ずかしいことだから。
そして、できたら誰かの「たかが」や、花柄の便座カバー(に見えてもそうじゃないもの)に光をあてたり、そういうものをつくったりする仕事をしたな…と思った。