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折れた風見鶏達

「今夜、僕のバーにおいでよ。」
病棟のラウンドが終わった高山京介は、ナースの藤井彩夏に囁いた。
「…え?」
彩夏がたじろぐと、高山は一瞬ニコッとした後、その場を去った。白い歯が妙に印象的だった。彩夏は一瞬立ち止まると、我に返ってナースコールのあった病室に急いだ。

「ちょっと、彩夏、さっきの何?」
同僚ナースの若松心菜が静かにそして早口で彩夏に話しかけた。
「高山っち、あちこちの病棟でちょっと可愛い娘いると、すぐやらかしてるのよね〜。」
心菜が続けると、あなたも気をつけなさいよ、という表情をした。

郊外にある私大病院の分院。付属の幼稚園から医学部までその私大で育った。兄弟両親、親戚も医師の家系である高山京介は、胸部外科の若手のエース。将来もほぼ約束された身分で、今は分院でレジデントをしていた。都会育ちで遊び慣れた高山は、女癖も悪くて有名ではあった。

高山が彩夏に興味を持っていることは、既に病院中の職員が共有することであった。それもそのはず、秋田出身の彩夏は、色白で病院ではかなり目立つ存在であったので、高山が狙わないわけないと、みんなが感じていたことだからである。

「高山先生、僕もレジデントの時は元気だったんだ。」
高山は夕方のカンファレンスで上司の外科部長、伊藤克正にこう言われると、ドキッとした。伊藤克正が実は彩夏がお気に入りだったことは、高山も気づいていたからだ。

タヌキのような顔に、タヌキのような腹を自分で撫でながら、伊藤は高山の顔を見ずに、つぶやいた。
「ま、そんな僕はもう、現役引退だけどな。あはは。」

ーまずい、このままだと伊藤に妬まれる。
立ち回りも一流の高山は、そのことがあってから一切彩夏への絡みを辞めて、しかも転院の届をして、別病院に移る希望を出したのだ。
タヌキ親父とはいえ、教授には可愛がられているし、医局でも人望もそれなりにある伊藤は、侮れない人物であったのである。

「高山先生、希望は聞きましたよ。東部病院への移動、受理しました。ありがとう、先生。」
伊藤がいつものように、高山と目を合わせることなく言うと、高山は即座に返事をした。
「先生からは多くのことを学びましたし、胸部外科が空席の東部病院でお役に立てればと思っています。」

高山京介にとって、少し郊外の東部病院に移ろうが、なんの痛手もなかった。むしろ少し田舎で遊ぶものが周囲になければ、それだけ病院でまた花選びができるだろう、くらいにしか考えてなかった。それはそれで、高山にとっては楽しみでもあった。

数日の後、高山は麻布十番のイタリアンレストランでモデルの璃子とワインを飲んでいた。気候もよく、テラス席を解放していたので、そよぐ夜風もワインの香りを運び、解放的である。
間接照明に照らされたワイングラスを傾けて、元に戻す。グラスの内側に付くワインで、高山は甘さを測っていた。

突然、高山は璃子の手を引いて、店の外に出た。
「ちょっと、何よ!」
「いいから!」
髪を振り乱したまま、店から手を引かれて外に出てきた璃子は、繋がれた高山の手を振り解いて、何事があったの?という顔で高山を見た。
「いや、まずい人を見つけちゃってな。」
高山が同じイタリアンレストランで見つけたのは、伊藤克正とドレスアップした彩夏だったのだ。危うく、気付かれずに表に出てきた。
「あんたも、悪いことばかりしているから、気まずいことが多いのね。」
高山は苦笑いを浮かべたが、考えてみたら、何も悪いことをしているわけでもないし、そのまま挨拶くらいかましてもよかったかな? とも、思えてきた。
「ーまあ、辞めておこう。」
「何がよ?」
「なんでもないよ。行こう!」
そう言ってタクシーに手をあげると、六本木一丁目の高山のアパートまで急いだ。それにしても、あのタヌキ、やる時はやるなあ。
麻布十番から、坂道を通り抜けるタクシーの後部座席で、高山は少し酔った璃子のしなやかな肢体を介抱しながらも、彩夏のノースリーブから出る色白の肩が目に焼きついて離れなかった。

彩夏がナースを志したのは、秋田の田舎で大好きなお爺さんを交通事故で亡くしてからだった。米農家の一人娘である彩夏は、いずれ結婚した旦那が良ければ、農家を継いでほしいと、両親は淡い夢のような、絵空事をいつも描いていた。彩夏は、東京に出たら、サラリーマンの息子の結婚相手を見つけようと考えていた。なぜなら、農家を継いでくれる可能性もなくはないからである。

上京して2年経ち、ますます彩夏の美貌を周囲の男共が放っておかなかったのだ。とはいえ、女性に苦労をしたことがない高山も、別に彩夏に執着することもなく、はたまたタヌキ親父も、ただの危険な遊び程度で、怖くて最後まで仕掛けてくることもなく、意外にもこれという決め手もないまま、時は過ぎて行った。

もし、高山のような人物が本気で彩夏を口説いたところで、自分の将来にまでは関係することはないだろうと、彩夏は考えていた。

そのうちに、仕事量も増え、彩夏は軽くメンタルを病み始めた。会う男会う男、中途半端に彩夏を口説こうとするものの、最後まで腹を括るような、骨のある男には出会わなかった。そんなストレスフルな生活で、彩夏は体調を崩し、都内の病院勤務を休職して、秋田の実家に一時引っ込んでいた。

反対する両親を振り切って、再び上京したが、彩夏の新しい勤務先は人間ドックがメインの施設で、夜勤は無かった。激務からは解放されたが、同時に給料も減った。その安月給ではとても都内のワンルームマンションの家賃を払いながら生活するのは大変だった。とはいえ、身体の方が大事だと、自分に言い聞かせて、節約しながら暮らすことにした。もともと質素な性格の彩夏には、特段苦になることもなかった。

「たっちゃん、起きてよ。」
彩夏の横で、チーママの紗希が、カウンターにしなだれて寝落ちしている田中耕太郎の背中をさすりながら、声をかけていた。
彩夏は安月給を補うため、夜に駅前のスナックバーでバイトを始めたのだ。スナックバーといっても、都心に近い郊外の駅前なので、客層は普通のサラリーマンや弁護士などの自営業の人が多かった。紗希に起こされた田中耕太郎の目に飛び込んできたのは、彩夏の可憐な姿であった。
耕太郎は、30代半ばだろうか。とてもじゃないけど、女性に縁があるようには見えなかった。

予想通り、耕太郎はそのスナックバー、「Lavie」の常連になった。もちろん、彩夏に会いにきていたのだ。耕太郎の彩夏への想いは日に日に増していった。これも予想どりである。スナックバーも毎日飲んでいれば、安いわけでもない。耕太郎は安月給を叩いて常連になるも、気の弱いせいで、彩夏に対して決定的なアクションを起こすわけでもなく、何か言うわけでもなく、ただ、楽しそうにしていて、ただの酒好きということにしていた。常連客の多いLavieでは、とはいえ、みんな広太郎が彩夏に本気であることも知っていたし、彩夏のバイトの仲間もみんな知っていた。

ある日、彩夏の誕生日を祝うということで、Lavie閉店の後、みんなで深夜営業のカラオケバーに繰り出した。そこで、バイト仲間も、チーママの紗希も、常連客もみんなカラオケルームを出て、彩夏と田中耕太郎を二人きりにしたのだ。

「田中さん、決めてくれよ。」
常連客の一人、開業医の森は、つぶやいて、みんなで盛り上がった。なんだか、大学のサークルみたいで楽しいなあ。60歳近い森はそういうと、またみんなで盛り上がった。

彩夏は、どうして良いか分からず、とりあえず耕太郎のアクションを待っていたが、いつまで経っても耕太郎は何も言わなかった。それどころか、関係ない話とかを始めて、また飲んで歌い始めた。

彩夏はカラオケマシーンの停止ボタンを押して、耕太郎を見つめた。驚く耕太郎に挑むように唇を押し付けた。

次の日から、なぜか耕太郎は店に顔を出すことも無かった。常連客も、あの日何かあったのかは察していたが、それをイジって面白おかしい話をするようなことも無かった。そして何事もなかったかのように月日が流れた。

悶々とした日々を送っていた耕太郎は、意を決して彩夏にLINEを送った。午前2時半。既読になった。耕太郎は、自宅を飛び出すと、彩夏の家に急いだ。

「もう、私。無理!」
耕太郎が現れると、彩夏は泣きながら、抱きついた。
「どうした?」
「さっきの人か?」
マンションの入り口ゲートで、耕太郎は見知らぬ男とすれ違っていた。それが高山京介であることは、彩夏は耕太郎には言わなかった。言ったとことで、耕太郎には知る由もない。
「でも、何も無かったわよ。」
彩夏が泣きじゃくりながら、さらに耕太郎を強く掴んだ。
「わかった、わかった。もう大丈夫だよ。」
耕太郎はタバコを取り出し、火をつけると、ため息で煙を吐いた。沈黙して、ただ抱き合う二人の閑散とした都会のワンルームマンションで、タバコの煙だけが部屋の天井付近を彷徨い、強く、そして弱く、生命感を醸し出していた。
二人はそのまま、眠りについた。

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