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「聴く」ということ
そういえば聞き役に回ることが多かった。
友だちの話を聞く。(ありがたいことに、頭がよく、希望に満ち溢れた友人たちに恵まれたため、「はぁ〜そうだよね」とついつい聞いてしまう)
仕事で先輩や上司の話を聞く。(お説教されたり、語られることが多かった)
親の話を聞く。(母は人の話をあまり聞かないので、わたしが聞く側になる)
そんなこんなで話すより相槌を打つ方が多かった。
でも、わたしの話も聞いて欲しい!聞いてばっかりいるのは損だ!と思ったこともあった。(今もたまに思う)
だが、『Listen』という本に出会って、聞き役は損だ、という常々の不満はほぼ解消された。
「聴く」ことは、受け身ではなく能動的に相手を、そして自分を理解していくことなのだと分かった。
その時から「聴く」を意識するようになった。
漢字でも、十四の心で耳を傾ける、という成り立ちの由来があるそうだ。
先日、傾聴セラピストの講座を受けた。
「スナックみそ」という架空のスナックをインスタに作ったのだが、そこで「聴き上手なママ」として、来てくれる人をおもてなしできたらなぁ…という思いが昂じてのことだ。
なぜ「聴くこと」でおもてなしをしたいと思ったのかというと、それは母のことがあったからだ。
去年、父が急逝し、母がそれはそれは落ち込んだ。弟たちは手続きに奔走していて、母に寄り添いたい気持ちもありながら、イライラしていた。もともとわたしは手続きに疎く、そっちでは役に立てないこともあり、必然的に母担当になった。
泣きながら取り止めのない話をする母の話を「うんうん、そうだね」と聴く日々だったが、それはそんなに嫌なことではなかった。
母とは色々あって、距離を置いていたこともあったけど、「こういう人なんだよなぁ」とふんわりとした気持ちで接することができた。
葬儀から少し経った時、「あの時は助かった、ありがとう」と母に言われた。
何かをしたつもりもなかったけど、あまり褒められたことがなかった母から、そう言われたことにびっくりした。
このことが、過去の聞き役に回っていた経験と繋がって、「聴く」ことで誰かのお役に立つことはできないだろうか?と思うようになった。
話して相手に受け止めてもらえることで、話した側は認めてもらえたという安心感を持つ。
また、話しているうちに自らの心が整理されて、自分の中に持っていた答えに辿り着くことができたりもする。
そう、わたしが「聴くこと」に感じた大きな魅力は、答えはその人の中にあるという、人の力を信じて寄り添うスタンスにあるのだ。
シンプルなことだけど、そういう機会ってなかなかない気がする。
でも、いきなり「あなたの話、聴きまっせ!」
というのはなんだか恥ずかしいし、来る方も深刻になってしまうかも。
もっと気軽に話せて、しかもなんだか心が軽くなった、楽になった、ってのがいい。
そういう妄想が着々と膨らんでいる。
スナックみそ、どんなお店になるかな。