【エッセイ】ゆるすという事

ども!
今日は少し時間が出来たのでゆっくり書いてみようかなと。

先日、少し遠い親戚にあたる高齢のおじいちゃんが危篤?になるのかな?
『今日明日ヤバいかも』と連絡がありました。

まぁ遠いものの親戚には当たるので
『そっか…』と。
面識はないし、話した事もないし感情が揺れることはなかったけど、やはり人が死を迎えると聞くと色々考えますよね。

その時、ふと思い返したことがあって。

そんなことを今日書こうかなって思っています。


人となり


いわゆる人間が生まれ持った『生来の性質』や『人柄』のことを言いますが、こういう時
その”人となり”が一番顕著にわかると言いますか。

よく言いますよね。
『死んだ時にその人の価値がわかる』って。
人間に『価値』って言葉を使うのはどうかと思うあゆさんではありますが。。

死んでから人にどうこう言われても、もう死んでしまってるのでどうしようもない。

でも、『この人はもうすぐ亡くなってしまう』と言う時にその『価値』とやらが一番わかるような気がして。

その親戚のおじいちゃんの事はよく知らないけど、やっぱり周りはあまり情がわかないらしく、経済的な事情もあって想定外に(あまり使いたくない言葉だけど)生き長らえると周りは喜ぶどころか、困惑するという、、、。

ま、私の知りえないことがたくさんあったんだろうし、おじいちゃんの”人となり”知りませんからね。

義父の話



この話ちょっと長いですm(__)m。

相方氏の父、私の義父は2018年享年83歳でこの世を去りました。
直接的な死因は”肺炎”による呼吸不全。

実は義父が亡くなるまでの半年間の間に色んな事が怒涛のように起きたんです。

私、現在の相方氏と結婚するとき、色んな事情を抱えていたのですがそれでも快く私を迎えてくれたのが義父でした。

しかし、相方氏の家庭は少々、、、いや、かなり複雑で、物心ついた時から別々に暮らしていたんですね。

それでも小学生くらいまでは月に一度、家族の暮らす自宅に帰っていたようですが、そのことを特段家族は喜んでいなかったようです。

むしろ、何事も自分中心で、長く会社経営者でしたので、それが影響してなのか、人に対しては少々高圧的な部分があり、家族はそういった義父の態度を快く思っていなかったようです。

そうは言っても幼い時って”一緒に遊びたい””甘えたい”って思いますよね。
親を求めるってごく自然な事。

でも、遊んでもらったり、一緒にいて楽しかった記憶が一切無かったと話す相方氏。

結婚当初、何度も遊びに来いという義父に対し

「何でこっちが行かないといけないんだ?」
「自分勝手なこと言うな」

と相方氏は義父に会いに行こうとはしませんでした。

それでも時々私に電話が来て
『遊びに来なさい』
『美味しいもの食べさせてやるから』
そう言って何度も誘われていました。

「ねぇ、遊びに行くことも、ちょっとした親孝行になるんなんじゃない?」

「一回くらい行ってあげようよ」

そう言っても頑として行こうとしなかった相方氏。
そりゃあまり無理強いも出来ないのでそのまま会いに行かずにいました。

癌が発覚



そんなことから2年ほど経った頃でしょうか。
義父が”胃がん”であることが発覚しました。

詳しいことは義母が教えてくれなかったけど、ステージ4までにはなっていなかったと思います。

義母にはそれなりに理由があったのだと思いますが、すぐに”手術”せずに健康食品?のような民間療法的な事を義父に勧め、あんなに家族に対して高圧的だった義父も「わかった」と案外すんなり義母に勧められた方法を受け入れて半年ほどを過ごしました。

しかし、病状は進行するばかり。
結局は胃の全摘切除手術となりました。

その少し後、義父が退院したと聞き

「お見舞い行こうよ」
と言ってみました。すると

「わかった」
とやっと重い腰を上げGWに遊びに行く途中に寄ろうという事に。

何でも前もって準備をしたい私に対し、ぎりぎりまで行動しない相方氏。
何日に行くとも何も決めないままGWになり結局当日まで連絡も何もしないで行くことに。

GW中だしホテルとかも予約したかったけど
「遊びに行くついでにお見舞い行くだけだから」と頑として向こうの都合も聞かないし、こっちの予定も立たない状況。

そんなこんなで結局GW真っただ中、腰の重い相方氏をなだめつつ、当日やっと電話をして
「家にいるならこれから行く」と。
義父は驚いていたようですが自宅にいたのでそのままお見舞いの品を持って会いに行きました。

”ピンポーン”



「あれ?留守?」っと思うほど時間がかかってやっと玄関の扉が開きました。

そこに立っていたのは別人のように瘦せこけた義父。
その姿を見て2人とも想像以上にショックを受けましたが、それでも手術で悪い所は全部切除出来たとのことで少しずつですが固形物も食べられるようになっていました。

「元気そうで安心しました」
そう言った私に

「あゆさんありがとう」
義父はそう言いました。

しかし、突然連絡してきた相方氏に

「なんで当日に電話してくるんだ」
「今日の今日じゃ何もしてやれんぞ」

そう言いました。

その言葉に
「やっぱりな」
という表情の相方氏を見て

”お義父さんまた余計なことを…” 
と、私は心に中でそう思っていました。

せっかくお見舞いまで行ったのに、その一言を聞いて 大病しても何も前と変わらない義父を見て、さらに相方氏は関わることを拒むようになりました。
そしてここから数年、顔を合わせたのはたった数回しかありませんでした。


1枚の葉書から

それから義父と私達の関りは年賀状くらい。

それが2018年、知らせたいことがあった私は義父に1枚の葉書を出しました。それが4月。

5月のGW明けに義父に会いに行くことに。
顔を合わせるのは数年ぶり。

忘れもしない、その日は5月というのに気温が30℃以上あるとても暑い日でした。

”ピンポーン”



以前同様、なかなか玄関には出てきませんでしたがジッと扉が開くのを待ちました。

すると…

、、、、、、。


絶句するほど義父は痩せこけ、足腰も弱っているようで壁を伝って歩いていました。

一番驚いたのは室内の温度が異常に暑かったこと。外は30℃以上にも関わらず、義父は暖房を入れていました。
力ない声で「寒くないか?」と私たちを気遣う義父を見て泣きそうになりました。
きっとあれだけ痩せているし、それじゃなくても高齢になると体温調節は難しくなります。

あんなに頑なだった相方氏もその事実にショックを隠し切れず、気温が30℃もあるなんて、とてもじゃないけど言えなかったようでした。

部屋は時々誰かが片づけに来ていると言っていましたが、お世辞にも綺麗な状態ではありませんでした。
部屋の奥にはなぜか大量のレモンティーのペットボトルが。

義父は飲み物専用の冷蔵庫を指さし

「好きなもの飲んでいいぞ」
そう言いました。

そう言って冷蔵庫を開けるとそこにも同じ大量のレモンティーが。
と言うか、レモンティー以外入っていない事に動揺を隠せなかった相方氏が

「親父、そんなにレモンティー好きだったっけ?」というと

「なんかビタミンが摂れるらしいから勧められて、、、」と。

水分はそれしか摂っていないようでした。

困惑する私たちをよそに義父が

「飯は食ったのか?」
「冷蔵庫になんかあると思うけど」と。

言われるままに冷蔵庫を開けると腐ってはいないけど数日経ったであろう手作りのおかずや、日持ちのするものが少し入っていました。
でもとても食べる気にはなれなかったので

「あ、お腹空いてないんで大丈夫です」
と私が言うと

「今日は帰らなきゃいけないのか?」 
と急に義父が相方氏に聞きました。

「あ、いや別に」
と相方氏が言うと

「じゃぁ泊ってけ!」と。

正直「ええええぇぇぇぇ」と思ったてた私。
それを察した相方氏が
「こんな散らかってたら布団敷けないし・・・」というと

「バカなこと言うな!ちゃんとしたホテルに泊まるに決まってるだろ!」

声は力なく弱いけど、言い方は前とちっとも変わってない。変な話、少し安心もしました。

義父の家から30分も走れば北海道でも有名な温泉街があります。
とりあえずそっちに走れ!と言われ、相方氏の運転で温泉街に向かい、数件ホテルを周り、やっと中堅くらいのホテルに部屋が取れました。
そこのホテルはとても広くって、温泉や食事会場へも少し距離があって歩かなければいけなかったけど、義父はそれでもいいというので部屋を2つ取ってくれました。

ホテル側に事情を話しても部屋食は急で用意できないとのことで、結局バイキング形式に。

骨と皮だけでカサカサに乾いた義父の手を引いて、私は長い廊下をゆっくりゆっくり歩きました。

「あゆさん、あ酒飲めるんだよな?」
「はい!めっちゃ飲みます!」
「今日は好きなだけ何でも飲んでいいぞ!」

なんだかとっても嬉しそうな義父を見て私も嬉しくなりました。

食事会場に着き、義父は
「オイ!」
とホテルの方を呼びました。

「酒のメニューを持ってこい」

、、、、、。

あ、やっぱ変わってないなと私は少し苦笑いでしたが相方氏はずっと複雑そうな表情でした。

「日本酒一番高いやつ」
「ワインの一番いいやつ」

もう、注文の仕方がどうかと思いますが、義父はどんどん私に飲ませます。

いまなら”アルハラ?”とでも呼ぶんでしょうかね?笑。
とにかくどんどん飲ませるんです。

幸い私、お酒はそこそこ強いので(笑)食事の2時間で酔いつぶれることはありませんでした。
そりゃ、自分のペースで飲みたかったけど、義父が嬉しそうだったし、それもひとつの親孝行な気がして。
しかし終始、複雑な表情で見ていた相方氏。
部屋に戻ると

「なんかごめん」
そう私に言いました。

「あ、別に!てか、あーいうの全然慣れてるし笑」

夜職も長かった私は本当にそう言うの慣れてたし全然平気でした。

「少しは親孝行になったかもね」
そう私が言うと

「俺は何もしてない」
そう言って少し悲しそうな顔していました。

次の日、義父を自宅に送り、部屋を後にしようとするとき、義父は私を呼び止め

「これ、少ないけど」
と私の手を握りお札を持たせました。
昔、祖母がこうして母に気が付かれないようにお小遣いくれたことをふと思い出しました。

そして
「次はもっといい所に連れてってやるから」
「高い肉も食わせてやる」
「今度はいつ来る?」

相変わらず「言い方w」と思いましたが、それがとても嬉しかったし、義父も楽しみにしているようで、また間が空かないうちに来よう!
そう思って義父の自宅を後にしました。


知らせ

それからあっという間に一か月半。

ある日、自宅に一人の女性が訪れました。
昔から義父に世話になってるというこの女性。話を聞くと、用件は

・ここ数年、周りで世話をしてきたけどもう限界
・義母はきっと義父を受け入れないので長男である相方氏の所で義父の面倒を見て欲しい

義父の元部下や義父が可愛がっていた人達でここ数年面倒を見て来たけどやはり、家族の所へ帰るべきと周りで話合ったけど 義父から帰りたいと言い出せないと思うのでこっちから話して欲しいとの内容でした。

私たちは初め困惑しました。
そうは言っても義父が本当はどうしたいのがが分からなかったから。

やはり、義母に話すべきという事になり、一連の話を一通り話すと、義母は

「いつまでも他人にお世話になってるわけにはいかない」

そう言って私達を通して義父にその旨を伝えて欲しいと言われ、再度義父の所へ出向き帰って来てほしいと話すと義父は拍子抜けするくらいくらいあっさり「わかった」と了解しました。

「やっぱり家族の所へ帰りたかったんだね」そう相方氏とホッと胸を撫で下ろしました。

帰る場所

義父をこちらに連れてこようと思った矢先、義父が転倒し病院へ搬送されたと連絡があっりました。
急遽、相方氏、義母と義姉が病院へ向かっいました。

幸い命に別状はなく骨折などはしていなかったけど、色々検査を受け軽度の認知症と診断され、今後家族の所へ早急に帰ることを強く勧められました。

やがて、私を除く家族が集まり、義父を連れ帰ることが決まりました。
てっきり実家に暮らすと思っていたけど、もう何年もそこでは誰も生活はしていなくて、義母や義姉の職場として使っていたんです。

なので住めるように少し直したり手を加えなければいけないけど、やっぱり最後はちゃんと義父を引き取るんだなと感心していました。

でも、義母と義姉が引き取るといったのは家にではなく実はグループホームだったんです。

やっと家に帰れる。
みんながすぐ駆け付けられる場所に帰れる、義父はきっとそう思っていたでしょう。

あんなに高圧的だった義父は一切文句を言うことも無く、すんなりグループホームに入居しんです。

そう...。

”家を直す間だけ”そう嘘を言ってグループホームに入居させたのでした。

命の選択

ほどなくグループホームへ入居した義父へ会いに行きました。
ほんの3ヶ月前、一緒に温泉に行った時の元気はもう跡形もなくなっていました。

体調を崩し食欲が無く、栄養ドリンクみたいなものを食事代わりにホームから出されるけどほとんど飲むことはなく、部屋にたくさん溜まっていました。
それでも私たちがお見舞いに持って行ったゼリーをほんの少し食べて 

「おいしい」

そう言って嬉しいのか悲しいのか分からない複雑な表情をしていた義父。

そんなある日、義母からの連絡でグループホームから検査入院を勧められたと聞きました。基本的な事は自分で出来るという入居基準だったグループホームだったらしく、義父はもうその基準ではなかったから、とりあえず病院へとやんわり出ていって欲しいと言われたようなものでした。

家に帰れず挙句に病院へ。
あまりにもそれが可哀想と思った私は、義父をうちで引き取りたいと申し出たんです。
相方氏と話し合い、私がいいならと話を進めたいと、その旨を話すと義母と義姉は猛反対しました。

「周りがどう思うか考えてる?」
そう言われたけど

「周りは好き勝手なこと言いますよ?だからって誰かが助けてくれるわけじゃないし」

「あゆさんが言ってくれる気持ちはありがたいけど、あなたの言ってる事は綺麗ごとよ」と。

そう言われるとなおさら義父を引き取らないわけにいかない!
そう思って色々調べていた時、義父の病院から家族が呼び出されました。

用件はもう口から栄養を取ることが困難なので点滴の抹消静脈栄養だったけれど限界があるので”中心静脈栄養”にしてはどうかと。

日に日に弱っていく義父。
私は”中心静脈栄養”のメリットデメリットを調べました。

その結果、終末期と言う段階にきて数ヶ月
命を長らえる為にすべき選択とはどうしても私には思えなかった。
しかし、義母と義姉は”中心静脈栄養”にしてくれとそう医者に言ったそうです。

それまで前面にでて嫁の立場である私が口を出すことはしてこなかったけど、医者を交え私も話に加わらせて欲しいと頼みました。
そして、医者に詳細にメリットデメリットを説明して欲しいと意見書を作りました。

実際に私が作った書類

医者はしっかり説明した上で、どうなさいますか?と家族に問いました。

相方氏と私VS義母&義姉

病院へ長く居られないので、今後の事も話さなれはいけません。

今となって思うのは、義父の事を思う気持ちも当然ありましたが、何より義母や義姉の考え方が私には理解できなかった。許せなかった。

やれるだけの事はやった=中心静脈栄養 そう向こうは考えていたようでした。

私や相方氏の気持ちとは大きく違っていたんです。

何度も
「あなたは父の事を何もわかってない」

「どうして私たちが最後までこんな思いをするの」

「どうして他人のあなたがそこまで口を出すの?」

結局最後まで分かり合えることはありませんでした。

その時思ったんです。

死を目の前にしてゆるされないほどの事を義父はしてきたのだろうかと。

義父をゆるすと言うことは義父が救われるだけでなく自らも救われるんじゃないのかなって。


死して尚


結局義父は帰りたかった自宅に1度も帰ることはありませんでした。
義父に対して最後まで私が出来ることと言ったら、毎日病院へ顔を出すくらい。

義父はいつも私の手を握って何か言いたそうな顔で私を見つめていました。

「また明日来るからね」

義父に最後にかけた言葉です。

あっけなく義父はこの世を去りました。
帰りたかった家に帰れたのはもう亡くなってからでした。


義母も義姉も涙を見せることは一切ありませんでした。
会社の会長まで務めた人がこんな最期なのって思ったけど、よく聞く”死んだ時にその人の価値がわかる”ってこのことなの?って。

人の心はどうやったってわからない。
わかりようがない。

でも、自分の死期を何となく感じたとしたら、今までの人生を振り返って『申し訳ない』『もっとこうすればよかった』って少しは思うんじゃないかなと。

ま、みんながそうかと言えばそうじゃない人だっているでしょうけど。

その人にされたことや恨みつらみはあるかもしれません。

でもその人が亡くなってからゆるせなかった自分を後悔するってこともあると思うんです。

どんなことも”ゆるす”って事は簡単じゃない。

でも許すことで救われるのは相手だけじゃなく自分もなんじゃないかって。


そう考えると今までどう生きてきて、これからをどう生きるかってすごく考えるんですよね。

ゆるせなかった事を全てゆるして

最期にはありがとうと言いたい。

最期にはありがとうって言ってもらえるような

そんな生き方をしたいなって。

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