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わかると、わからない、の事。

昨日の上町の勉強会で
わかるの話をして
(子どものことがわかるということ~「わかる」と「わからない」の境界と保育者の自覚性~)
保育は、やっぱり、人としての営みであるから面白いし深みがあるなぁと実感する翌日。

子どもの事をわかりたい、わからない
どちらも必要と思うと同時に、
大人同士だってわかった気である事を認識していないと怖いなと振り返る。

子どもの頃の国語の問題で、筆者の思いはなんですか?という問いが、大っ嫌いで
それは本人しかわからないでしょ、とずーっと思いながら
大人の欲しい答えを考えてた気がする(笑)

相手のことをわかりたいと思って話して、それを自分の言葉でわかろうとする瞬間に相手ではなくなる、
でも、わからないことへの不安感は尽きない。
人間って矛盾しているなぁ。
困った困った。


4歳クラス男の子
両親は勉強が出来ることが基準、姉は小学一年生なったぼかり、まだまだ甘えたいボーイが
荒れてて、給食になると高い棚の上に登るは、長い棒持ってきて友だちの顔の前で振るし、
もう一人のやんちゃボーイの事を「ずるい」と言っては嫌がらせしてとっくみあいの喧嘩になるは、で毎日トラブル連続で、
私はほとほと困っていた。
(えー🤨なんでー😩こらー🤬の毎日。)

彼の事をなんとかしたくて
アプローチ方法を考えて、

両親に彼の姿を伝えて、
気持ちを受け止めてもらおうと

廊下で彼の話をゆっくり聞く時間を作った。
(家庭に原因があると押し付けてたな、)

私の予測は、
家で勉強がいや、姉ばっかり構っている、もっと遊びたい、母親にかまって欲しい
とか、そんな事を聞いて
それを両親に伝えて彼との時間を作ってもらう
とかなんとか、、、


でも、暴れながらも彼がボソボソ呟いたのは

「〇〇ちゃん()とリカちゃん遊びが嫌、」

その時私が思ったというか感じたというか、流れた気持ちは、
(そりゃ、やだよねぇ、、😦)
言えた言葉は
「そっか、、やだったね」

でもその後、無理矢理自分の予測に括り付けて
母親に気持ちを伝えてあげようかとか提案したけど
全部noで、結局、
お昼だし、お腹すいたしご飯食べよっか
で、お昼ご飯になった。


彼と話した後

私自身、結局何がしたかったのか
彼にとって余計なお世話だったよなぁ、とモヤモヤ反省するエピソードだったんだけど

昨日のわかるの話を、聞いた事で
私は彼を自分の言葉と経験でわかろうとしてたし、分かると思っていた、
挙句、なんとかしてあげると思っていたんだなぁと思う。

でも、彼の人生を、なんとかしてあげるなんて烏滸がましいし、
ただ、
彼の
やなんだよーのモヤモヤした気持ちが
流れ込んできたというか、
あーそれはやだわー
と一緒に思って留まったというか
そんな感覚を思い出した。

でも、私は保育士だからなんとかするべき
という勝手な思いで
その留まりを無理に流してしまったなぁとも思った。

保育士の仕事!!という勝手な思い込みが厄介だなぁと思うと共に
大人だからなんとか出来るとも思ってしまってたのかもだし、
子どもと大人
先生と生徒
保育士と子ども
という関係性がなかったら
もう少し留まれたかもしれないとも思ったり

同い年の友だちと話したとしても留まれなかったかもしれないとも思ったり、

相手をわかりたいという気持ちと
なんとかしようという烏滸がましさと
色々な気持ちに
保育って自分の人間関係を浮き彫りにするなぁと
しみじみする、昨日からの今日。


文章がめちゃめちゃ
伝えようとするには言葉が必要だし、
わかりやすい言葉がいるんだけど
心のままに書いてるからこれまた難関。

また直すかもしれないし、直さないかもしれない。
や、直さないな(笑)


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