32.悟浄出立
「好きな道を行けよ、悟浄。少し遠回りしたって、また戻ればいいんだ」
万城目学さんの『悟浄出立』という本に出てくる、わたしの好きな言葉です。
悟浄出立は、西遊記の沙悟浄からの目線で描かれているもので、主人公は悟空ではありません。勇敢な悟空や向こう見ずの猪八戒の陰に隠れ、傍観者になっている自分を恥じている沙悟浄。その沙悟浄が、猪八戒を考察するお話です。
有名な話を元に、サブキャラがサブキャラを考察するストーリーなんて面白すぎて、夢中で読みました。短編なのですぐに読み終わってしまいましたが、心に残る衝撃を受けたことは確かです。
万城目学さんが本のはじめに「中島敦」から影響を受けて書いた、と言っているので、その本もぜひ読んでみたい。今度買う。
「こうして最後尾に従い、無口に荷物を担ぐだけ、という消極的役割しか果たさぬ川底の石のような存在から、依然、何の脱却も果たしていないのではないか」
これは悟浄の言葉なんですが、今の自分と少し重なってしまったんですよね。
わたしは、自分が消極的役割しかできていないとは、思いたくないしそうじゃないと信じたい。でも躁鬱とはっきり言われたことで、自分の自信が総崩れになったことは間違い無いし、不安定な時は、川底の石のような存在と思ったこともあります。不安定じゃない時も、心の根底にいつもこの気持ちは抱えているし、たまに顔を出します。
「悟浄よ、頭のいいお前なら、きっと分かるだろう。世界をたった一つの枠組みで捉えようとする者がしばしば陥る、単純ゆえに排他的で、孤独ゆえに循環的な思考のなれの果てを。真理を得て、世界がいよいよ広がるはずが、逆に以前とは比較にならぬほど、狭隘かつ不愉快なものに成り下がってしまう不幸な現実を」
これは猪八戒の言葉です。この言葉も心に刺さりました。
生きていればいろんなことがありますよね。嫌なことも嬉しいことも。
わたしだって、なぜこのタイミングでこうなったんだろうって考え込むこともたくさんあります。
躁鬱と診断されたということを、誰にもなにも言わずに、周りにはうまく取り繕いながら過ごしていったら、もしかしたら今みたいに窮屈にはなっていないのかもしれない(取り繕えないからこうやって病院に通い、薬を飲んでいるんですけどね。だけどそんな選択肢もあったんじゃないかってときどき思う時もある)。
こういう時、周りを見渡してみると、視界が広がるかもしれません。世界をたった一つの枠組みで捉えようとすること、それはとてももったいない生き方なんだろうと気付きました。
自分の世界を広げたいし、たった一つの枠組みに翻弄されるような生き方はしたくない。
万城目学さんが書いた猪八戒は、紅の豚に次ぐ男前な豚で、価値観が変わる瞬間を体験させてくれました。
やるじゃないか!ただの豚の妖怪だと思ってたよ!ごめーん。