Joseph Nkosi(ジョゼフ・ンコシ)さんのこと
あれは2004年だったか2005年だったか、アメ村・タワレコの前のビルの3階にあった「BATICA(バティカ)」というお店によく出入りしていた。
タイやネパールで買い付けた、民族衣服や雑貨が並ぶそのお店を営んでいたご夫婦からはぼやーんと煙たい、バイトのさっちゃんからは太陽の光を浴びた洗濯物のような香りがして、「ここではないどこか」を近所に見つけた私は、仕事の合間になるとバティカのあるビルの階段を駆け上っていた。
そこでよく流れていたのが、『cocido』というコンピアルバムだ。
特にFOXの「Mondo calypso」という、女性がのんびりとまどろみながら歌っているような曲をしょっちゅう聴いてたのを覚えている。
そのアルバムがあまりにも良く、私もすぐ買った。
大阪市内を自転車で縦横に走り抜けて仕事しながら、イヤホンを耳に突っ込んでよく聴いた。
アフリカ、インド、オーストラリア、カリビアンといろいろな国の楽器が奏でられており、本当に世界中を旅しているような気持ちになった。
バンドというより“族”のエネルギー漲るジャンベのリズム、蛇のようにクネクネと巻き付くトランス感のあるディジリドゥの音色、シタールの弦が弾かれると毎回私の脳内にはラメの入ったサリーを着た妖艶な女性が現れた。
旅に憧れ音楽に陶酔し、何度も何度も聴いた。
仕事現場に到着するとイヤホンを外して旅から現実へ。
大体において移動中に聴いてたので、コンピを最後まで聴くことはあまりなかった。
CDを買ってから随分経ったある日、そう言えばと最後に収録されているJoseph Nkosi(ジョゼフ・ンコシ)の『Si Vuna Mmabele』という曲をiPodで選んだその日から、私の人生は別の方角を向いた。
「これは私のための音楽だ!」
稲妻に打たれたとか、衝撃だったとかそういう類のものではなく、コロコロと子どもがはしゃぎ回るような素朴な音がかわいくて愛おしくて、長い間私の探していた「ここではないどこか」はここだったのだ、としみじみ涙が出るほど嬉しかった。
何度も何度も、抱きしめるように『Si Vuna Mmabele』を聴いた。
もちろん検索もした。
ジョゼフは南アフリカ共和国出身のマリンバ演奏者で、ラッキーなことに大阪在住、アートも描いていらっしゃるそうだ。
当時のHPにはマリンバを教えるワークショップも載っていたので、私は迷いに迷った挙句、メールを送って会いに行った。
ジョゼフの奏でるマリンバは、アフリカの木と水道のパイプから作られたものだった。
オーケストラで見る洗練されたマリンバとはまるで違う、ツギハギな自作のマリンバからは、優しく親密であたたかな音が放たれた。
それはまるで古くから知る友人のようだった。
私はその後も度々ジョゼフの家に行き、ある時は小さな姪っ子を連れて、ある時はアフリカンダンスを踊る友人と共にマリンバをたたいた。
南アフリカ特有のあのマリンバの音を聴くと、今でも心が躍り出す。
旅への憧れを留めることができなかった私は仕事を辞め、旅をし、途中下車のつもりで帰国した際に今の夫と出会い結婚した。
子どもが生まれ、息子が1歳になった時、夫が毎日少しずつ撮り溜めた息子の1年間の成長を15分にまとめた動画を私にプレゼントしてくれた。
その動画の後半に、夫はジョゼフの演奏する『Kwela』という曲をつけてくれた。
大阪から田舎へ移住した数年後、ジョゼフを招いてイベントを開いた。
アフリカの音楽に詳しくなくても、あの何もかも許すような音を感じて、子どもも大人も心がふわっと軽くなればいいなと思って開催した。
出店やお手伝いに友人が駆けつけてくれた。
田舎へ引っ越すのが嫌だったのに、移住先で見つけたお気に入りの音楽堂を使わせてもらえたこと、ジョゼフの音楽をたくさんの人と分かち合えたこと、幾つもの夢が一気に叶った1日だった。
そのジョゼフが重い病気だと聞いたのは、コロナに入った2020年のあたりだったと思う。
ジョゼフの回復を願う祈りのイベントをやるからと友人に誘われ、私はスピリチュアル過ぎると断った。家で祈るからいいよ、と。
ジョゼフが病気なことはすごくショックだし、元気になってまた音楽を聴かせてほしいけど、祈りのイベントは自己満でしょ、と木で鼻を括っていた。
ジョゼフが亡くなった今になると、もっと祈ればよかったと思う。
祈りは私のためだったのだ。
その人がいなくなった後も、悔いなく過ごす自分のためだった。
祈らなかった私は、後悔とともに、ジョゼフのことを書く。
そんな私の周りを、ジョゼフのマリンバが無邪気に優しく、はしゃぎまわっている。