『悲しみの共同体』
沖縄の共同体意識
昨日、TVのバラエティ番組で、沖縄の人々が語り合う場面が出てきた。
すでに統廃合によりなくなってしまった「コザ」という地名が今でも住民によって親しまれ、使われているという内容で、コザという地名への愛着が語られる内容だった(うろ覚え)。
沖縄の人たちの連帯感、共同体意識の強さを感じながら見ていたら、ふと「悲しみの共同体」という言葉が浮かんだ。
沖縄の人々が、戦争をはじめとして、味わってきたであろう様々な悲しみが想起された。コザ騒動という事件もあった。
悲しみを共有することは、絆や連帯感を強めるのではないか。
テレビ朝日『にじいろカルテ』をみて感じたこと
そんなことを考えながら、その後のテレビ朝日のドラマ『にじいろカルテ』を見ていたら、友人同士の女性たちがそれぞれの悲しみについて話しながら、泣き合いながら、励まし合っている場面があった。
若年性認知症の悲しみ、子供に恵まれなかった悲しみ、夫が突然出ていってしまった悲しみ、重い病気になってしまった悲しみ。
なるべくしっかりしているように、人に迷惑をかけないように、泣かないように、立派に生きるようにと言われ続けて育ってきた私たちにとって、こんな風に弱みを見せ合える関係性があることは、どれだけ安心できることだろうか。
スウェーデンのオムソーリ:
悲しみを分かち合うことで幸せになる
「悲しみの共同体」
で検索してみたら、「分かち合い」としての社会保障、「分かち合い」としてのケア、「分かち合い」の経済学などを提唱している東京大学名誉教授の経済学者、神野直彦さんのことを知った。
『「社会サービス」はスウェーデン語で「オムソーリ(omsorg)」と言います。オムソーリという概念は非常に広く、医療・教育・福祉がこれに該当します。また、オムソーリのもともとの意味は「悲しみの分かち合い」です。医療や福祉というところではケア(care)という概念も思い浮かびますが、これらもオムソーリの示す社会サービスに含まれるため、ケアも「オムソーリ=悲しみの分かち合い」の一つであると捉えることができる、と神野さんは考えます。
では、なぜ悲しみを分かち合うのでしょうか?
スウェーデンでは、人々は悲しみを分かち合うことで幸せになると考えられています。』
悲しみを分かち合い、助け合うこと。
このことは、潜在的には誰もがもっている願いだと思うが、日本では何がその願いを覆い隠してしまうのだろうか?
奪い合いから分かち合いへ。
そのシフトのために、私ができる今日の小さな一歩はなんだろうか?
私が創りたい「死が身近にある社会」は、よりゆたかな社会。 応援いただけると嬉しいです!