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「幸せ感じ力」の高め方

先日、終末期の患者を診ている在宅医の中村明澄先生に話をうかがった。

そのなかで、多くの患者を看取ってきたなかで、どんな状態でも「今が一番幸せ」と思えている人がいて、その人は幸せそうに逝くという話を聞いて、「そんな聖人いるの?」と驚いた。

「幸せ感じ力」に関する記述はこちら。

穏やかな最期を迎えられた患者さんには、どのような状態の方でも「今が幸せなんだ」とおっしゃっている方が多いと感じます。

ある末期がん患者さんは「がん終末期と知ったおかげで、死ぬ準備ができてよかった」と話していました。余命いくばくもないことを知ったつらさは相当のものだったと思いますが、それでも「余命がわかるから、がんでよかった」とうれしそうに言っていた姿が忘れられません。

この幸せや喜びを感じられる能力のことを、私は勝手に「幸せ感じ力」と呼んでいます。どんなときでも物事を暗い方向から見るのではなく、明るい方向から見ることができると、人生の豊かさが変わってくると思うのです。

私が大人になってからきちんと「死」に向き合ったのは、2023年1月に義母が亡くなったとき。そのときに感じた「後悔」も、上の記事のなかで質問させてもらっている。

今年に入ってから、とにかく多くの「死の雰囲気」を感じてきた。異様だった。

でもいつだって世界のどこかでは常に誰かの命が消えているから、そんなにおかしいことではない。ただ、私が平和すぎて、これまで死の危機を感じてこなかっただけだと思う。

大前提として、死はよくも悪くもないと思う。摂理だから。

でもその死期を自分で早めたり、希死念慮に苛まれたりすることは、せめて私の手の届く範囲の人にはあまり起こってほしくないなと思う。

いや、いつ生きようが死のうが、人の勝手なんですけど。でも私は、周囲の人に対して「生きていてほしいな」と思ってしまうわけ。これは完全に私の願いでありエゴ。

そう思いながら「幸せ感じ力」の高め方について考えたとき、私なりの答えは以下だった。

「自分が『生きる』と決めること」

私はこれまでの人生で自死を考えたことがない。どんなに心理的・金銭的に追い詰められても「死のう」ではなく、「なんとかなるだろう」と思っていた。そして現実に、どうにかこうにか生きてきた。いろいろ傷だらけだけだし、ものすごくラッキーだっただけだと思うけれど。

だから今後も、何があっても私は生きていて、自分から死ぬという選択肢はない。だから自然の摂理で死が近づいたとしても「それまではめいっぱい生きるわ」という選択肢がとれそうだなと思った。

このメンタリティで本当に、自分の最期に「幸せだったなぁ」と感じられるかはわからない。最期を迎えるときまで実証実験は続く。

あともうひとつ。

日頃から子どもと一緒にいて感じるのは、「子どもって生命力が服を着て歩いているようなもんだなぁ」ということ。もうね、全力で「毎日生きてて楽しいよーー!!!」を体現している。

ついこの前まで存在していなくて、生命体としては大人よりもよっぽど死に近いのに、不思議なものだ。

だから私も子どもに習って「生きててサイコー!」の雰囲気を醸し出していきたいなと思う。それが周囲の人のセーフティネットになったらいいな、という思いも込めて。


Requested by Takako Maruyama
「幸せ感じ力に関するエッセイ」

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