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「小児の言語聴覚士」と出会ったその先に【4】自衛官から言語聴覚士への転身、そして開業。専門性を生かして自分らしく働く

最後は、子どもが療育を受けるなかで、自身も言語聴覚士になろうと一念発起した太田卓明さんのエピソードだ。現在は、言葉の教室『わくわくそだちラボ』を経営しながら、保育園や幼稚園を回って言語聴覚士ならではの支援を行っている。

自衛官という、まったく異業種からの転身。その背景にあった思いや、転職を決断した経緯、開業後に気づいたことなどを聞いた。

娘の言語消失や反応の薄さが気になり…検査の結果その障害が判明

太田さんは、中学三年生のYちゃん、小学六年生のKくん(どちらも仮名)を育てる2児の父だ。彼は元自衛官で、当時から現在まで、家族とともに青森県で暮らしている。

Yちゃんが3歳になる頃、発語の遅れが目立つようになる。

「長女は元々、発語がやや遅い子でした。でも1歳前後で『あー』『ブブブ』などは出ていましたし、『はーい!』と言って手を上げたり、大人と目を合わせてほほえんだり、おじぎをしたりすることもできていたんです。

しかし2歳を過ぎてから、呼びかけに対する反応が急に薄くなってきて、3歳頃に発語の遅れが目立つようになり、県内の医療機関などにかかりました。そして検査の結果「知的障害+自閉症スペクトラム」と診断されました」

Yちゃんは、いわゆる「折れ線型自閉症」だと思われる。だから、以前よりも反応が乏しくなり、これまで言えていた単語が言えなくなる「言語消失」が起こったようだった。

その後、Yちゃんは太田さんの奥さんに連れられ、スキー場からほど近い療育施設に通うようになる。そこには言語聴覚士は在籍していなかったそうだ。

「当時、何度かひやっとする出来事がありました。ある日、娘が住んでいたアパートからいなくなり、行方不明に。アパートの裏にはちょっとした林があり、そこを下りていくと池にたどり着きます。当時妻は長男を妊娠中で、体が心配な時期でもありました。勤務中に電話を受け、私が急いで家に帰ったときにはすでに林のなかで無事に発見されたあとでした。あのときは最悪の事態は免れ、胸をなで下ろしましたね。

また、家族旅行で岩手県の小岩井農場に行った際にもまた行方不明になり、息子をおんぶしながら牧場内を駆けずり回りました。その日の夕方には発見できましたが、夫婦ともども疲労困憊になりました」

まだ0歳の弟とともに

言語聴覚士と出会い、さまざまな療育を経験

その後、太田さんに異動の辞令が下り、同じ県内で転勤することに。通う療育施設も変えることになった。

「次の療育施設はグループ療育を中心としていて、言葉に関する個別の療育がありませんでした。どうしようかなと思っていたとき、その施設の方に『言葉を専門としている言語聴覚士という資格をもった人がいる。言語聴覚士がいるところに通ってみてはどうですか』と教えてもらったんです。

すぐに妻が探してみたところ、言語聴覚士のいる病院が県内にいくつかありました。そこで、療育施設と並行して、言語聴覚士のところにも通うことにしたんです」

よく笑うYちゃんとKくん

太田さんは残業ありのフルタイム勤務だったため、療育通いは奥さんが全般的に担当した。平日と土曜の午前中は療育施設に通い、病院では週1回、言語聴覚士の療育を受けていたそうだ。

「妻に聞いたところ、最初に担当してくれた言語聴覚士は、絵カードを中心とした療育をしていたそうです。

しばらくしてその方が産休に入り、後任の言語聴覚士がやってくることに。その方はのりやはさみなどの道具を使った療育を行っていたので、そこで娘がはさみなどの道具が使えることに驚き、娘の変化を感じたと言っていました」

こうして、療育に通う日々が続いた。言語聴覚士の支援を受けてよかったと思っていたのだろうか。

「正直なところ、療育に通ったから何か目覚ましい成長があったわけではありません。でも『通うのをやめたら娘の成長が遅れるかもしれない』という不安がありました。また、療育に通わせていることで、親が納得感を得ていた部分もあったと思います」

娘の突然の体調不良を契機に、言語聴覚士への転身を決める

Yちゃんが5歳のとき、ある日突然下痢や嘔吐が始まり、それが止まらなくなるという出来事が起きる。これが太田さんをつき動かすことになった。

「娘の体調不良は原因不明でした。かかりつけの小児科だけでなく大きな病院にもかかったのに、原因がわからなかったんです。私は『自分が原因ではないか?』と思いました。

当時私は部署の都合で非常に忙しく、1年の3分の1はほとんど家にいなかったんです。そうしたしわ寄せは家族にいきます。だから娘はストレスから体調を崩したのではないかと感じました」

そもそも自衛官は2〜3年に一度、異動や転勤があるのが常だ。将来的にまた引っ越しを伴う転勤があったとき、家族をつれていくのか、自分だけが赴任するのかという選択を迫られる。自分や妻の負担を考えると、どちらも現実的ではなかった。

「そのときから、本格的に転職を検討し始めました。そしてどの仕事を選ぶにせよ、『家族のためになること』『定住できること』『毎日定時に帰れること』の3つを軸にしようと決めたんです」

この転職軸には、かつて在籍していた陸上自衛隊幹部候補生学校で出会った教官や同期からもらった名言のひとつ、「格好いいか・格好悪いかを、行動や判断の基準にする」というものが影響しているという。

「私はこの言葉を自分なりに解釈し、『“それを選択したら幸せになれるのか”を判断基準にする』『数十年後に“やってよかった”と思える行動をする』ということを指針にしようと思いました。

そうしていろいろと考えた末に決めたのが、言語聴覚士になるという選択でした」

言語聴覚士なら、この判断基準に合致している。Yちゃんを通して言語聴覚士の存在を知っていたことに加え、友人が言語聴覚士として働いていたのも検討のきっかけになった。

「その友人からは『やめておけ』と言われていましたが、すでに心は決まっていたので決断はゆらぎませんでしたね」

無事に資格取得。しかし勤務先で希望が叶わず「言葉の教室」を開業

こうして太田さんは自衛官を退官し、奥さんとともに家事や育児をしながら、言語聴覚士の4年制の養成校に通った。学校が家からほど近く、自転車で通えたのはラッキーだった。

「勉強するのは17年ぶりだったので、なかなか難しかったです。でも同期に恵まれ、たまに飲みに行くなどして楽しい時間を過ごしました。当時は人狼ゲームが流行っていて、少しおじさんだった私は皆についていけませんでしたが……。

在学中、特に勉強との両立が厳しかったのは、大学三年時に父親が亡くなったときです。逝去後の手続きや家族のケアなどで手一杯でした。また、資格試験前もかなり追い込んでいたので、当時は毎日4時間ほどしか寝ていなかったと思います」

努力の甲斐があって、太田さんは資格試験に一発合格。県内の児童発達支援センターで勤務し始めた。

「私は個別の言語療育の経験を積みたかったんですが、1年目は言語に限らないグループ療育を行うチームに入りました。2年目にようやく個別の言語療育を担当できたものの、グループ療育チームの職員が辞めてしまい、また以前の担当に戻ることに。

思うような支援ができなかったこともあり、思い切って個人で開業することにしました」

退官してからは子どもと遊ぶ時間も増えた

元来、楽観的な性格だという太田さん。重い決断というよりは「まずはやってみよう」という感覚で、言葉の教室『わくわくそだちラボ』を始めた。

そして現在は『わくわくそだちラボ』での個別療育に加えて、言語聴覚士のいない保育園や療育施設などを周り、アドバイザーとして専門性を生かしたさまざまな支援を行っている。

「保育園や療育施設でのアドバイザー業務は、『わくわくそだちラボ』の営業で保育園などを回っていたことがきっかけで、依頼されるようになりました。

具体的には、先生方へ摂食嚥下を含めたアドバイスを行ったり、職員さんを含めて言語発達などに関する勉強会を実施したりしています。依頼があれば、保護者を対象に説明を行うこともありますね」

穏やかに暮らしながら、いきいきと働く今

開業から間もないタイミングで、多種多様な業務を行うようになった太田さん。言語聴覚士としてのやりがいを、どんなところに見いだしているのだろうか。

「言語聴覚士という資格を生かして働けることも嬉しいですし、学んだことを娘に生かせることも大きなやりがいになっています。

娘に療育を行うわけではありませんが、娘の行動を促すような対応や、彼女が言った通りにできない背景がわかるので、より上手に関われるようになりました。その結果、これまでよりも家族が穏やかに暮らせるようになった気がします」

仲良く遊ぶ姉弟。Kくんは姉の障害についてなんとなく理解しているそう

また、自営業になってから気づいたこともあるという。

「自営業になり、すべての行動を自分で決められるようになってから、とても生きやすくなりました。

私はもの覚えが悪かったりケアレスミスが多かったりして、人と同じようにふるまうことができず、生きづらさを感じていました。でも大学で発達障害について学んでから、自分にも発達障害に当てはまる部分があるとわかり、納得したのを覚えています。

それまでは人に迷惑をかけたくなくて、なるべく自分を出さず、行動を意識的に制限していました。でも今は、自分に合った環境を作ることができて、とても充実しています。自分が活性化しているのを感じますね」

最後に、子どもの成長に関して葛藤している読者に向けて、メッセージをもらった。

「これまでの経験からお伝えしたいのは、お子様の障害を、夫婦や家族の絆や愛だけで乗り越えるのは難しいのではないか、ということです。その絆や愛を動力源としつつも、ぜひ行政や医療、福祉などの“頼れるもの”を探してみてください。

愛の結晶であるはずの我が子を愛せない人生は、つらいと思います。お勤めされている方は日々の仕事で忙しく、帰ってきてからも気が抜けない日も多いでしょう。でも少しだけ、療育に関する知識の吸収に時間を使ってみてほしいです。

そしてその知識をぜひ実践してみてください。お子様からは何らかの反応があるはずです。その効果があったもの、なかったものの取捨選択を繰り返すと、お子様により効果のあるものに出会えます。

そんな時間も余裕もないときは、お子様を抱きしめてみてください。遊んでいる我が子を5分だけじっくりと観察してみてください。もしかしたらそれが、お子様が求めていることかもしれません」

お子さんの体調不良をきっかけに転職を決め、言語聴覚士となった太田さん。さまざまな出来事を一緒に乗り越えた家族への思いを胸に、今日もいきいきと支援を届けている。

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