タイプがちがうという前提
タイプのちがう人間が、一緒にいることは難しいのだろうか。
世の中にはいろいろなタイプの人がいるけれど、長く付き合う人とかよく遊ぶ友人は、自然とタイプが似通ってくる。
大人数でワイワイするのが好きな人はそういうタイプで遊ぶし、1人が好きだったり少人数が落ち着く人は、同じテンポで生きている人と一緒にいる。
ごく稀に全然タイプが正反対のような人と仲良くなることもあるけれど、実は根本は似通っていたりする。根っこは1人が好きとか、初対面の人が苦手とか。
根本が同じだからこそ、見せかけのタイプがちがっても、長年の友人や夫婦になれる。
ということは、正反対の人同士が長年一緒にいるのは、難しいということになる。
タイプがちがうと、ことあるごとにスタイルや考え方がちがって、どちらもストレスを抱えるのではないだろうか。もしくは、知らず知らずのうちに片方に合わせて、片方だけがストレスで爆発する。
ストレスは、敵だ。時には体調を崩すし、メンタルも病んでしまう。それくらいの威力が発生する可能性があるものを、ずっと抱えるわけにはいかない。
ただし、例外がある。それは「小さいときからの知り合い」だ。
小さい頃に知り合って仲良くなったけれど、成長につれてお互いの性格が変わった。変わったものの、知り合った年月が長すぎて、ちがいなんか越えてしまう。
年月だけが、ちがいやタイプをスッと越えてしまう。実際に、タイプがちがうのに仲の良い人たちを見ると、そんなパターンが多い気がする。
もしくは、もともとの友人との性格が何かのきっかけで変わってしまっても、長年の友人だから続くこともある。不思議な話だ。
ということは、大人になってから出会ったタイプのちがう人間は一緒にいられないけれど、子供の頃に出会っているタイプのちがう人間同士は、一緒にいられる、ということになる。
もしくは、国籍がちがう場合もだろうか。実際に、旅で出会った友人はみんなタイプがちがうけれど、仲が良い。その時も楽しく話せるし、帰国後も付き合いがある。
この場合は、「もともとタイプのちがうもの」として接しているからだろう。生まれ育った環境がちがうから、考え方もちがう。その前提が共有されている。
これから誰かと仲良くなる時も、その前提を忘れてはいけないのかもしれない。この人と私はちがう。そんなの当たり前だけれど、意外に気がつけない。単一民族の日本人では、余計に。
「この人は私とはちがう」そんな考えを持つ必要性ももちろんあるけれど、そう思うことで攻撃してくる人からの盾にもなる。役立つ考え方のひとつだ。
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