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『ブランクーシ 本質を象る』 アーティゾン美術館 鑑賞レポ
今日ちょっとおもしろいことがあった。
ブランクーシ展に行ったら、キャプションがなかった。番号だけちょこんと横にふられてて、知りたい人は入口に置いてある作品リストと照らし合わせて確認してねって感じで、そのおかげで作品と作品のゆるやかなつながりが生まれ、大量の文字によって関係性が遮断されてないのがとっても心地よかった。
愛して止まない「接吻」を360度ぐるぐるぐるぐるぐるぐる周りながら見ていたら、女性とその母親らしき2人組が隣にあった頭部の彫刻作品をみて、「なんにも書いてないから表か裏かもわかんないわね!」と言ったあと、会場にいた係の人に「これ、どれも何も書いてないから何がなんだかわかんないんですけど」と質問されていた。
係の人は「なるべく先入観なく、まずは作品をじっくり見て頂きたいという意図でございます。入口に作品リストがございますので、そちらに簡単な説明も書いておりますので作品横の番号と照らし合わせてご鑑賞いただけますと幸いです」って感じで説明されていた。
女性は母親に「先入観なく見てもらいたいからだって」と伝えると「さっぱりわからないわ」と2人で全く腑に落ちてない様子のまま作品リストも取りにいくことなくさらっと作品を鑑賞して出て行かれた。
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この話の何がおもしろいかって、まず「表か裏もわからない」という発言。めちゃくちゃおもしろい。そう、表も裏もない。頭部で言うと顔の部分が表で、後頭部の方が後ろという先入観があるが、彫刻において別に後頭部が表だっていい。生活においてだって、人前に出る時を表、家にいるプライベートな時を裏とも言ったりするけど、どっちだって「私」に変わりない。
特に「接吻」でいうと、2面を比較すると実はすこぶるおもしろい発見がある。
片面はほぼ同じ大きさの目と口で、髪の毛の長さの違いから男女と思われるまるみのある2つの塊がぴったりくっついてキスをしている。まるで一心同体。身も心も共にあるような“美しい”“完璧な”愛の形だ。彫り方もとても丁寧で、滑らか。
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一方でもう片面をみると、なんだか急に雑www目の大きさは非対称で口元だってガタガタしている。腕もごつごつしてているし、髪の毛もごわごわ。“歪な”愛の形だ。
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この違い、明らかに意図的だろと思わざるを得ないのだが、以前この作品を友達と対話型鑑賞してた時に、「これ、ただ裏だからつくるのめんどくさかったんじゃなくて、こっちはあれじゃない?出かける前、化粧とかする前の2人なんよ。こっちはこっちで素の2人ってことじゃない?いいよね、こういう姿も」と友人が話してくれて、あぁそれだ~~~~!とうんうん首がもげそうなほど頷いたことがあった。
今日それを思い出しながら、表はどっちかを必死に探していた親子2人のように、わたしたちも外に見える部分、表の部分だけで物事を判断した気になる、わかった気になることが往々にしてあるが、表も裏もないし、片面だけじゃなくて360度みてはじめて気づくこともあるってこと、忘れないでいたいなと思った。
彫刻や立体作品はこれだからおもしろい。
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もう一個のおもしろポイントが「さっぱりわからない」という発言。
同じだ。わたしも芸術鑑賞していても、8割~9割わかっていない。
この親子はわからないことにぷんすかしていたが、「わからない」→「不満」という構造はある種とてもいい前向きさを備えていると思っていて、「わからないからこそわかりたい」にベクトルが向けば、歩み寄る方法はいくらだってある。
そもそも「わかる」ってどんな境地のことを指しているのか自問自答してみると、対アート作品においても対人においても「わかる」なんて日は永遠に来ないということに気づくはずなんだが、「どうせわからない」ではなくて「それでもわかりたいんだ!」という気持ちを持ち続けることは、一人では生きていけない私たち人間にとってとても大事な欲求だと思っている。
この親子はわかろうとする手立てとして作品名や作品解説を欲していたというよりは、作品名がわかったり、解説を読めばその作品のことを“理解したことになる”という勘違いをしているだけだと思うので、せっかく持っているわかりたいという情熱を、受け身ではなく自ら得に行くエネルギーに変えていければ、結果、「あ、わからなくてもいいんだな」と世界の捉え方がぐっと柔軟になって生きやすくなるんじゃないかなと思った。
わたしは実際わからないことを楽しめるようになってから、人生が本当に楽になった。
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全体の展示の感想も。
ブランクーシの作品は素材やデフォルメされた形状から未来的なイメージが先行していたのだけど、中心からズレていたり、線に歪みや揺らぎやがあったり、ねじれなど有機的な動きがあったり、生き物の肉体のフォルムの美を素直に扱っていたりして、思ったよりプリミティブな印象の方を強く受けた。原始的な姿形、根源には何があるんだろうかということが追求したかったのかもしれない。
始原に還っていくことを退行ではなく、時代の文脈に乗せるにはどう表現すべきかということで「今」の素材や手法を用いてつくっただろう作品を、2024年の私が「未来的」と感じるのもなんだかとてもおもしろい。
表と裏の話をあてはめると、未来と過去だって「1本の時間軸」に集約されると考えると、「新しい」も「古い」も無いのかもしれない。
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